真意はどちら? ― 2009年05月04日 22時21分41秒
皆様のおかげで、笠原潔君の思い出を新たにしました。本当に、もう少しお付き合いをしておくのでした。でも、そうな風に亡き人を思うことって、多いですよね。
昨日の朝刊のコラムに「肥満差別と戦う」という記事が出ていました。ちょうど、太った人から高い航空運賃を徴収するという話が話題になっていたあとですから、興味を惹かれ、読んでみました。
アメリカの30代の女性が企業の人事担当者に文書を送るなどして活動している、という話です。このことがコラムになるのは、種々の差別との戦いを、ジャーナリズムが基本的に支援するスタンスをとっているためでしょう。それはいいのですが、最後の1文を読んで考え込んでしまいました。その締めは次のようなものでした。
「(彼女は)『私は博士号もあり、幸せに結婚している。美と知性を認められて当然な一人の人間なの』と訴えた。」
本当にこう言っているのだとすれば、この人は「内なる差別心」を認識するところから始めるべきではないか、と言いたくなってしまいます。ま、そういう人はじっさいにいますから、当人の自由ということにするとしても、私が知りたいのは、このコラムを書いた記者はどういう意図でこう書いたのだろうか、ということです。単純に応援しているのか、むしろそうではないのか。どちらにも読める話です。
明日はラ・フォル・ジュルネで、《マタイ受難曲》はまず自分自身の罪に目覚めることを人に勧める音楽だ、という話をします。その逆だなあと思い、気になりました。
コメント
_ Clara ― 2009年05月05日 13時12分27秒
_ I教授 ― 2009年05月06日 12時23分15秒
Claraさん、ありがとうございます。記事のその前に書かれていたのは、その人が女性の美や健康に対するメディアの操作に抗議する活動を行っていたが、あるきっかけから肥満差別に対象を移した経緯です。
デリケートな問題を種々含む差別論を展開する用意は、今の私にはありません。プライドとかレゾン・デートルとかの概念は差別と紙一重ですし、郷土愛や愛校心といった罪のない感情も、差別と裏腹だと思うからです。ただ、他人の差別を一方的にあげつらう人が自分自身の内なる差別に気がつかない、という形だけはいやなので、そのことを述べようと思いました。
デリケートな問題を種々含む差別論を展開する用意は、今の私にはありません。プライドとかレゾン・デートルとかの概念は差別と紙一重ですし、郷土愛や愛校心といった罪のない感情も、差別と裏腹だと思うからです。ただ、他人の差別を一方的にあげつらう人が自分自身の内なる差別に気がつかない、という形だけはいやなので、そのことを述べようと思いました。
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「(彼女は)『私は博士号もあり、幸せに結婚している。美と知性を認められて当然な一人の人間なの』と訴えた。」
この一節だけでは、記者の真意は、判断しにくいですが、こういう感じのことを言って、オカシイと思わない人(しかも、いわゆる高学歴、超一流大学を出たような人)は、世の中には多いような気がします。
知識と叡智の違いとか、学歴と教養の違いとか、そんなことなのかも知れませんが、自分の中に無意識にある差別感ー罪に繋がる意識を、自覚しているかどうかが、別れ道のような気がしています。
マタイ受難曲について、国際フォーラムでお話しされるとのこと、後からその概要だけでも、ブログで、ご披露していただけると有り難いです。
昨日一日、ラ・フォル・ジュルネのコンサートを聴きに行き、素晴らしい音楽に接しましたが、今日の「マタイ」は、すでに完売で、大変残念です。