《マタイ》公演総括(2)2009年06月24日 22時55分48秒

打ち上げの席でどなたかが、今回の企画を「ジョシュアとタダシの友情から生まれたもの」と形容されました。それはその通りですが、初めからそうであったわけではありません。私の心にあったのは、既成の団体にお願いするのではなく、新しい《マタイ》のプロダクションを作ろう、ということでした。そこで、「リフキンあり」「リフキンなし」の選択肢を提示したところ、相模原から、「リフキンあり」のゴーサインをいただいたのです。結果的にはそれが、すべての出発点になりました。

リフキンを指揮者に据える以上は、リフキン方式による、日本初の《マタイ》となります。そしてメールを交わすうちに、日米の競演というアイデアが成長してきました。私も彼も、惚れ込んだアイデアでした。

しかし経費を計算してみると、とても実現できないような数字になりました。そこから、どうやって経費を切り詰めるかの知恵を絞り、合理化に合理化を重ねて、これ以上は減らせない、という額にたどりつきました。その過程で「学生を含む若い人たちによる《マタイ》」という案が固まってきましたが、これは正解であったと思っています。若い人たちの学習欲が並々でなく、それがリフキンの教育者としての能力と結びついて、力の結集が生み出されたからです。ベテランを自由に使える状況であったとすれば、かえって今回の成果はなかったのではないか、と感じています。

そんな厳しい経済条件の中でしたが、意気に感じて手を挙げてくれる演奏家がたくさんおられ、プロダクションが形をなしてきました。企画の意義に注目してくださる人も増え、公の補助金もいただけることになりました。

このように回顧してみると、どんなに多くの方に助けていただき、働いていただいたかが、あらためて痛感されます。それに比べれば私のやったことなど限られています。だいいち、ひとつも音を出していないのです。それなのに私の名前が取り上げられることがなにかと多く、申し訳なく思っています。謙遜ではなく、心からの感情です。