講談調2009年06月30日 23時28分35秒

明治から大正にかけての頃、講談の人気はすごかったそうですね。私が子供の頃は、斜陽だと言われていても、それなりにラジオで聞く機会がありました。最近は本当に、耳にする機会が減っています。浪曲も、そうですけど。

残念だ、と言いたいところですが、私がひっかかるのは、講談が過去の出来事をひたすら効果的に、時にはおもしろおかしく話して聞かせる芸である、ということです。伝記も書く一研究者としては、必然的に誇張を含む「講談調」というものに、職業的な(?)抵抗感があります。もちろんこれは、講談を貶めて言うわけではありません。

そもそも学者の世界は、研究は極力事実に即しているべきで、話としては面白いが真偽不明、というような叙述は御法度、という世界です。当然、正確だが面白くはない、という記述が多いのが、この世界です。

昔、中村光夫さんという文芸評論家が、「エピソードがすべてだ」と書いておられるのを読んだ記憶があります。たとえば伝記の場合、さまざまな年代やデータより、ひとつのエピソードが鮮やかに対象を語る、という意味でしょう。しかしそうなると、そのエピソードは史実であるのか、という問題が必ず提起されます。いかにもありそうな話が後日形成される、ということも多いからです。

諸々のエピソードをどのように評価したらよいのか、しばしば考えてしまいます。誇張したエピソードなしでも面白い伝記は書けると思いますが、わかりやすいエピソードが人を広く惹きつけることは間違いありません。逆に、このエピソードは事実ではない、という研究が脚光を浴びたりするのも、現代です。