《マタイ》公演総括(3) ― 2009年06月25日 22時25分17秒
各パートひとり、オリジナル・パート譜の割り振りを遵守、という「リフキン方式」によって、音楽の印象は、ずいぶん変わりました。次のような説明ができるかもしれません。
合唱団の《マタイ受難曲》公演に、私がソプラノ歌手として呼ばれるとします。すると私は、「3つのアリア+2つのレチタティーヴォ」として作品を思い浮かべ、この5曲を入念に準備して、会場に出かけると思います。他の63曲は、一通り聴いておこう、ぐらいのところで、あらかた、人まかせにすることになりそうです。
そんな私に、合唱団から、「群衆などの合唱もいっしょに歌って欲しい」というオファーが来たとします。すると私は、そういう負担は勘弁して欲しい、アリアという重要な役割があるのだから、と答えそうです。かくして、合唱とソロの役割は分離し、固定されます。
リフキン方式ならばどうか。2グループのソプラノは、自分のパート譜を歌ってゆくわけですが、そこにはアリアのみならず、群衆の合唱も、コラールも書いてあります。したがって私はどちらも分け隔てなく歌い通すことになります。要するに、弟子や聖職者の合唱、群衆の合唱を身をもって体験し、それらに精通した人がアリアを歌うことになるわけで、結果として合唱はアリアのレベルで歌われ、アリアは合唱と同一次元で歌われる。今回の公演で聖書場面の合唱が大きく、印象的に目に映じてきたのは、こうした取り組みの結果であるに違いありません。
小島芙美子、坂上賀奈子、中嶋克彦、小藤洋平の第2グループ歌手4人が合唱パートにも精魂込めて取り組んでくれたことは、本当にありがたいことでした。歌い手が出来事の展開全体に責任を負うことの充実感に、皆が日々引き込まれていくように見受けられました。
梅津時比古さんが毎日新聞の「コンサートを読む」欄に寄せてくださった「背後の人々の気配を感じたのは初めてのことだった」というありがたいお言葉は、上記のことと無関係ではないと思います。
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