宮崎のキャサリン妃2012年07月22日 23時44分51秒

宮崎と鈴鹿で仕事をする2日間。かなりの強行日程です。飛行機は羽田発10時だったのですが(ソラシド航空)、あやうく乗り遅れるところで冷や汗をかきました。それは、谷保→川崎→京浜川崎のコースでアプローチしながら、京浜蒲田での乗り換えをうっかりし、品川まで行ってしまったからです。これで40分もロス。でもこのように始まる日の仕事は概してうまくいくというのが、私の理論です。

リサイタルを開かれるシムウェル(大薗)英華さんは、仲間内では有名な方で、ファンが大勢おられます。近況を知りたい方も多かろうと思いますので、少し詳しくレポートしますね。

コンサートは、宮崎市の市庁舎に接した市民プラザの、オルブライト・ホールで行われました。500席の、使いやすいホールです。備え付けのスタインウェイのピアノは最初とても気になりましたが、弾き込むにつれてよくなり、最終的には調律師の方の調整で、十分に効果を発揮しました。あ、リハーサル中に計画停電があったのには驚きました。

個人リサイタルでトークをするのは、むずかしい面があります。下手をすると、とってつけたようになってしまう。聴衆はほとんど初対面の方々ですから、最初のトークで、できるだけの一体感を作る必要があります。いらしているのはシムウェルさんのファンの方々なので、彼女に対するキャッチフレーズを献上するところから始めたいと思いました。そこで考えたのが、タイトルにつけた「宮崎のキャサリン妃」というものです。いかがでしょう。なにしろ、ご主人がイギリス人。たいへん美しく気品がある方という点でも共通です(似てはいません)。うまく考えたつもりですが、だめでしょうか(笑)。

学生の頃とまったく変わっておられないのは信じられないことですが、華麗なテクニックが健在で、音楽的に相当の進歩が感じられたことには、もっと驚きました。恩師の先生も進歩を認めておられたので、私だけの印象ではないと思います。ご家族の世話をし、4歳のお嬢さん(←お人形そのもの)を育て、2つの学校で教え、という多忙な日常を知っていましたので、どうしてこういうことがありうるのか、考えこんでしまいました。(続く)

コメント

_ 林茂 ― 2012年07月26日 12時26分47秒

知人から勧められ、先週、鈴鹿でのライフセミナーで先生の講演を聞きに参りました。ロ短調ミサの最近の研究進展の話しとのことで、初めて先生のお話を聞きました。講演を聞くまでWolffのロ短調ミサの著作の存在も、先生がそれを翻訳されていたということも全く知りませんで、さっそく注文した次第です。今日届く予定で、まだ読んでおりません。原語で読めない私には非常に有難いことです。フーガの技法についてのWolffの主張は大変面白く思っておりました。あの出版の翌年には複数のクラヴィア奏者が録音した事をみても、画期的でした。講演後、先生がここにHPを開いていることに気が付き、いろいろ読んでみました。その中に、ロ短調ミサへのWolffの主張が少しだけ書いてあるのを見まして、ちょっと驚きました。
先生の講演は、これまで私が知っていたような作曲背景の話しでしたが、バッハの企図についての結論が私の考えと違い、相違の原因は何かなと考えながら、拝聴した次第です。
どうも、作曲者にとってのテキスト、言語の役割、意味について重みの掛け方が微妙に違うところが原因のようです。
テキストを伴う音楽ですが、私は音楽の認識、記憶に非常に有効な道具であるという事をとても大きく捉えています。ソナタ形式などの構造化による意味化に比べてもはるかに有効です。人では音楽認識能力は言語認識能力と比べて未発達で、短い音列の記憶、認識しかできない。受容する側は、言語的意味を辿ることによりそれに付随したリズム、抑揚の記憶の延長上に音楽の構造を認識、記憶できる。このロ短調ミサの場合でも、当時のキリスト教世界、特にザクセン選帝侯領の特殊性を背景にした、止揚としてのバッハの宗教作品と考えるのは、なんとなくしっくりこないのです。当時の民衆には秘された両派の奥義の違いについての知識は博識のバッハは十分に持ってはいた。でも宗教者としての心情に関しては、私はバッハが一般人以上と考える根拠を持ちません。むしろ、宗教性については以下と考えています。ルター派教会での小ミサ曲とカトリック伝統の大ミサ曲との区別に何の拘りも持たなかったバッハの描像が自然に受け入れられます。バッハが天理教から依頼されたなら、教義の本質の精査と持てる修辞を尽くした優れた祈りの音楽を書いた筈です。依頼であれ、自発であれ、彼らにとっては作曲という仕事はそういうものでしょう。彼らは爪の先から頭のてっぺんまで音楽家です。更に、社会運動家としてのバッハなど想像もできない。異常に特化した音楽家としてのいたしかたないなりわいと受け取れば足りる。そういう人でなければ、あれほどの仕事はできない。バッハは私にはそういう描像なのです。荘厳ミサのベートーベンも同じなのですが。それほど、言語機能の活用は音楽認識に有効だ、と考えて彼らの描像には足りているのですが。もちろん、普遍性を求めてラテン語による大ミサの形式を採用し、命を削って書き上げ、己を音楽史上に刻印するという意志は明らかと思います。
また、ご講演のもうひとつのテーマ、「普遍性」ついても、いろいろ引っ掛かっています。

それにしても、このHPに先生が書いておられる範囲のWolffのロ短調の話についてですが、なぜWolffまで出てこなかったのでしょうか。変な気がします。

_ I招聘教授 ― 2012年07月26日 17時46分42秒

林さん、詳細なコメントありがとうございました。今旅行中なので、戻りましたらお返事いたします。

_ I招聘教授 ― 2012年07月30日 07時37分53秒

お待たせして失礼しました。認識能力の問題についてはおっしゃる通りかと思います。いろいろなお考えがあっていいと思いますが、2つの点で、私は見解を異にします。

1つは、「作曲家は爪の先から頭のてっぺんまで音楽家だ」という点。もちろんそういう人もいますが、そうでない人もたくさんいます。それは、日常の作曲家諸氏との交流において痛感するところです。音楽以外の理系・文系さまざまの領域に問題意識をもち、それを創作に還元している方がたくさんおられます。バッハもそちらの系統で、知的な関心が広くかつ深く、それが大学都市ライプツィヒの環境においていっそう促進されたと理解しています。

第2に、宗教性について。バッハは神学に大きな関心をもっていた人で、音楽の随所にそれが反映されています。その根拠としては、81冊に及ぶルター派神学書コレクションの存在を指摘しておきます。《ロ短調ミサ曲》においてもバッハは神学と自覚的に向かい合っており、それだけにこの作品のメッセージは重要だ、と私は思うわけです。

_ 林 茂 ― 2012年07月30日 14時41分15秒

おかげさまでWolff著のロ短調ミサ曲、最初の章、歴史的展望まで読んだところです。Wolff、なかなかの人物ですね。非常に面白く読みました。責任をもった翻訳、大変ありがとうございます。

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

名前:
メールアドレス:
URL:
コメント:

トラックバック