おめでとう ― 2010年12月11日 10時29分22秒
昨日本選が行われた第21回友愛ドイツ歌曲コンクールで、私の論文弟子である小島芙美子さんが優勝、川辺茜さんが2位・聴衆賞・シュトラウス賞というニュースが入りました。おめでとうございます。
26日の《ポッペアの戴冠》にも、小島さんはドゥルジッラ、川辺さんは幸運の神+小姓で出演します。おかげさまで、公演にも箔が付きました。長野の方々、ご期待ください。
話は変わりますが、昨日研究室で「ニヒル」という概念が話題になり、「ニヒルな人」って誰だろう、とみんなで考えました。多々候補が挙がり、名簿なども繰ってみましたが、今は亡き佐藤慶のような人って、案外いないんですよね。寡黙、孤高、陰影・・・といった諸条件も検討し、かなり価値観が高いという結論になりました。皆さんの周囲にはおられますか。容易に見あたらないのは、「武士は食わねど高楊枝」「父親の威厳」といった価値観がなくなって、みんなパンダやコアラのようなお父さんになってしまったからでしょうか。
【付記】澄音愛好者さん、候補としてどうでしょう。
26日の《ポッペアの戴冠》にも、小島さんはドゥルジッラ、川辺さんは幸運の神+小姓で出演します。おかげさまで、公演にも箔が付きました。長野の方々、ご期待ください。
話は変わりますが、昨日研究室で「ニヒル」という概念が話題になり、「ニヒルな人」って誰だろう、とみんなで考えました。多々候補が挙がり、名簿なども繰ってみましたが、今は亡き佐藤慶のような人って、案外いないんですよね。寡黙、孤高、陰影・・・といった諸条件も検討し、かなり価値観が高いという結論になりました。皆さんの周囲にはおられますか。容易に見あたらないのは、「武士は食わねど高楊枝」「父親の威厳」といった価値観がなくなって、みんなパンダやコアラのようなお父さんになってしまったからでしょうか。
【付記】澄音愛好者さん、候補としてどうでしょう。
落としどころ ― 2010年11月17日 08時40分05秒
先制攻撃で挑発した人がいるとします。それが耳目を集めたとしても、それでトラブルが解決、というわけにはいきません。一定の効果を上げたところで次に考えるのは、落としどころです。挑発した人は頃合いを見計らい、やあやあこのへんにしませんか、と言って手を差し出してくる。この手を平和主義的に握り返してしまうと、相手の完勝になります。自分が認知された上、うまくいけば、相手のテリトリーに食い込むことも可能になるからです。ですから、先に殴られた場合には差し出された手をうかつに握らないほうがいい、というのが、私の基本的な考えです。
こうした考え方からしますと、衝突した船の船長を帰し、首脳会談にも応じてもらって良かった良かったなどというのは先方の思うつぼだと思うのですが、いかがでしょう。毅然として対処すべき事柄は世の中にいくらでもあり、そうすることが、なかなかむずかしい。この問題などはひとつの参考になると思った次第です。
この問題は最近、ビデオの投稿是か非か、という話にシフトしていますよね。これには守秘義務という観点がからんでくるので、日を改めて論じたいと思います。
こうした考え方からしますと、衝突した船の船長を帰し、首脳会談にも応じてもらって良かった良かったなどというのは先方の思うつぼだと思うのですが、いかがでしょう。毅然として対処すべき事柄は世の中にいくらでもあり、そうすることが、なかなかむずかしい。この問題などはひとつの参考になると思った次第です。
この問題は最近、ビデオの投稿是か非か、という話にシフトしていますよね。これには守秘義務という観点がからんでくるので、日を改めて論じたいと思います。
外交 ― 2010年11月15日 23時42分16秒
ニュースで外交の話題が中心になってから、かなり過ぎました。中国人船長の扱いが妥当だったかどうかというところから火がついたわけですが、国という相手がある問題のむずかしさを痛感します。しかし、似たようなことは、周囲にもよくあると思うのです。私も長い人生の間に、同じようなことが起こった場合の危機管理マニュアルめいたものをいつしか作っているものですから、今回は、まずいんじゃないの、という思いがあります。
世にあるトラブルの多くは、自分を大きく見せたいと思う人によって引き起こされます。「人」を「国」と読み替え、瀬戸際政策といった言葉を思い出していただいても、かまいません。
自分を大きく見せたい人、あるいは、自分の大きさが認識されていないと考える人は、まず目立つことが必要です。ですから、どぎつい仕掛けをしなくてはならない。それが正当か、不当かは二の次で、不当なぐらいの方が、耳目を引きつける効果があります。それは結局損だ、というのは正論ですが、正論は我慢の根拠にすぎない、ということも起こります。
こういう場合には、挑発に乗らない方がいい、というのが大原則です。同じ土俵に上げられてしまうと、AとBのケンカという形で意識され、先方の思うつぼになってしまいます。放っておくのが上策なのですが、状況によっては、そういかない場合がある。船がぶつかって来て、そのあと日本批判の大合唱、などという場合は、甘受しているだけじゃダメですよね。個人ならともかく、大きな組織を率いている場合は、一定の対応をしなくてはいけません。(続く)
世にあるトラブルの多くは、自分を大きく見せたいと思う人によって引き起こされます。「人」を「国」と読み替え、瀬戸際政策といった言葉を思い出していただいても、かまいません。
自分を大きく見せたい人、あるいは、自分の大きさが認識されていないと考える人は、まず目立つことが必要です。ですから、どぎつい仕掛けをしなくてはならない。それが正当か、不当かは二の次で、不当なぐらいの方が、耳目を引きつける効果があります。それは結局損だ、というのは正論ですが、正論は我慢の根拠にすぎない、ということも起こります。
こういう場合には、挑発に乗らない方がいい、というのが大原則です。同じ土俵に上げられてしまうと、AとBのケンカという形で意識され、先方の思うつぼになってしまいます。放っておくのが上策なのですが、状況によっては、そういかない場合がある。船がぶつかって来て、そのあと日本批判の大合唱、などという場合は、甘受しているだけじゃダメですよね。個人ならともかく、大きな組織を率いている場合は、一定の対応をしなくてはいけません。(続く)
年齢も芸のうち ― 2010年11月13日 23時22分55秒
年齢の話が続きましたが、なんとなく思っていて、ここに至り、明確に意識したことがあります。それは、指揮者にとって年齢は大きな価値だ、ということです。
考えてみると、最近、80代の指揮者ばかり聴いている。新聞批評でやったのが、アーノンクールとプレートル。今日やっていた今月のCD選でぶっちぎりなのが、シマノフスキのヴァイオリン協奏曲と交響曲第3番を指揮している、ブーレーズ。そしてブルックナーがDVDになった、スクロヴァチェフスキー。80代の人たちが、すごい演奏を続けているのです。ギュンター・ヴァントの最晩年も、思い起こされます。
いろいろな理由があると思いますが、主な理由は、2つでしょう。1つは、演奏家と違って指揮者は自分だけでは練習できないので、キャリアを積むことで勉強が加速される。ようやく統率できるようになった、と実感するのも、かなり年が来てからに違いありませんし、その頃にはおのずと、周囲の信頼も増してきています。
もうひとつ、同じぐらいに大きいのではないかと思うのが、高齢になることによって、世俗的な関心から離れるということです。若い人はなかなか喝采とか格好良さから離れられないと思いますが、ある程度高齢になると、本質的なことだけを追求するようになる。結果として、受け狙いの高齢指揮者、というのは存在しません。そんな追求の喜びがあるためでしょうか、80代の指揮者の方々、皆さんお元気ですよね。足元が多少おぼつかなくても、長大な交響曲を精力的に指揮して、危なげがありません。電車で座席を譲られるのかどうかは、存じませんが。
考えてみると、最近、80代の指揮者ばかり聴いている。新聞批評でやったのが、アーノンクールとプレートル。今日やっていた今月のCD選でぶっちぎりなのが、シマノフスキのヴァイオリン協奏曲と交響曲第3番を指揮している、ブーレーズ。そしてブルックナーがDVDになった、スクロヴァチェフスキー。80代の人たちが、すごい演奏を続けているのです。ギュンター・ヴァントの最晩年も、思い起こされます。
いろいろな理由があると思いますが、主な理由は、2つでしょう。1つは、演奏家と違って指揮者は自分だけでは練習できないので、キャリアを積むことで勉強が加速される。ようやく統率できるようになった、と実感するのも、かなり年が来てからに違いありませんし、その頃にはおのずと、周囲の信頼も増してきています。
もうひとつ、同じぐらいに大きいのではないかと思うのが、高齢になることによって、世俗的な関心から離れるということです。若い人はなかなか喝采とか格好良さから離れられないと思いますが、ある程度高齢になると、本質的なことだけを追求するようになる。結果として、受け狙いの高齢指揮者、というのは存在しません。そんな追求の喜びがあるためでしょうか、80代の指揮者の方々、皆さんお元気ですよね。足元が多少おぼつかなくても、長大な交響曲を精力的に指揮して、危なげがありません。電車で座席を譲られるのかどうかは、存じませんが。
達人の根拠とは ― 2010年08月11日 11時51分11秒
年齢の話が出ましたので、エピソードをひとつ。
大勢の人を観察し、目の肥えている商売というのがありますね。高級レストランのウェイターは、その代表でしょう。連日、多くの人を観察している。そしてそこから、高級店ならではのサービスが生まれてきます。
その日(←つい最近)、私は、ある地方都市の高級レストランで夕食を摂っていました。はっきり言えば、松本の「鯛萬」です。ワイン・リストを見ると、値段がほとんど5桁!それだけあって、練達のウェイターさんが、行き届いたサービスをしてくれます。きっと、いろいろなお客様を見てきているいちがいありません。
一行は、4名。私の右に、Claraさんよりさらに年上、喜寿相当のご婦人。私より、少なくとも一回りは年長でしょうか。向かいに、ひげを生やした30代の男性。その右に、40代の女性。女性2人が親子で、あとは他人という関係です。こういう組み合わせをウェイターさんはどう見ているのだろうな、とかすかに思いながら、談笑を交わしつつ、食事を進めていました。
するとウェイターさんが、「ご家族で写真をお撮りしましょうか」とおっしゃるではないですか。これには、のけぞってしまいました。右におられるのは尊敬する愛すべきご婦人でしたのでいやな感じはまったくしませんでしたが、私が心から疑問に思ったのは、こういう接客の達人は、どういう根拠で、お客様が家族か否かを判定するのだろう、ということです。その理由を、心から知りたいと思います。
ウェイターさんが深読みし、親子二代で姉さん女房、と判定したのかもしれません。でもそれでは、向かいにいる男性が、私の息子ということになってしまう。その男性がまさお君だっただけに、割り切れない気持ちでいっぱいです。
大勢の人を観察し、目の肥えている商売というのがありますね。高級レストランのウェイターは、その代表でしょう。連日、多くの人を観察している。そしてそこから、高級店ならではのサービスが生まれてきます。
その日(←つい最近)、私は、ある地方都市の高級レストランで夕食を摂っていました。はっきり言えば、松本の「鯛萬」です。ワイン・リストを見ると、値段がほとんど5桁!それだけあって、練達のウェイターさんが、行き届いたサービスをしてくれます。きっと、いろいろなお客様を見てきているいちがいありません。
一行は、4名。私の右に、Claraさんよりさらに年上、喜寿相当のご婦人。私より、少なくとも一回りは年長でしょうか。向かいに、ひげを生やした30代の男性。その右に、40代の女性。女性2人が親子で、あとは他人という関係です。こういう組み合わせをウェイターさんはどう見ているのだろうな、とかすかに思いながら、談笑を交わしつつ、食事を進めていました。
するとウェイターさんが、「ご家族で写真をお撮りしましょうか」とおっしゃるではないですか。これには、のけぞってしまいました。右におられるのは尊敬する愛すべきご婦人でしたのでいやな感じはまったくしませんでしたが、私が心から疑問に思ったのは、こういう接客の達人は、どういう根拠で、お客様が家族か否かを判定するのだろう、ということです。その理由を、心から知りたいと思います。
ウェイターさんが深読みし、親子二代で姉さん女房、と判定したのかもしれません。でもそれでは、向かいにいる男性が、私の息子ということになってしまう。その男性がまさお君だっただけに、割り切れない気持ちでいっぱいです。
大化け ― 2010年07月26日 11時08分30秒
ごくらくとんぼさん、コメントありがとうございます。論旨は文化論、教育論に深く触れる問題で、一筋縄でいかないのですが、今回はいただいたご指摘をヒントに、「大化け」について考えてみたいと思います。
この人がこんなにできるようになるとは、ここまで成長するとは、という現象は、たしかに、この世に存在します。私も、経験したことがあり、教育者としては最大の喜びに属する現象だと、理解しています。昔、どんな学生も大化けする可能性をもっている、だから全員を徹底して指導せよ、と檄を飛ばす先生を見たこともあります。でも実際問題として、そんなことができるでしょうか。
教育現場における教員の負担は、重くなる一方です。しかも教員というのは、学生の指導さえしていればいい、というものではない。自分自身を向上させ、研究、演奏等の実績を上げていかなければ、本当の意味の指導はできません。また大学のような組織から見ると、少子化で収入増の望めない昨今、大化けさえ念頭に入れた徹底指導、などということに制度的保証を与えることは不可能です。少ない人数、限られた時間で多くの人数を教育するとなれば、一定の効率を追求することは、避けがたいのです。
そうなるとどうしても、選別が生じてきます。試験を受けて上に進む、いい成績をとって発表の権利を得る、という形です。試験に落ちた人の中にも磨けば光る人はいるかもしれない、という可能性はもちろんあり、そう感じられる人も多数見ていますが、そこまで手を広げる余裕はとうていない、というのが正直なところです。
ですから、教育を受けている側にも、結果を出す、少なくとも姿勢を見せる、というアピールは、必要だと思うのです。結果はすぐに出せないかもしれませんが、この人は勉強している、という印象を評価する側に抱かせることは、どんな場合にも、きわめて有効です。考えてみると、いわゆる「大化け」も、地道に努力している人にだけ、起こることのように思われます。違うでしょうか。
一定の緊張感のもとに、正当な競争をすること。それがレベルを高め、人材を育成することには欠かせない、というのは、分野を問わない真理なのではないでしょうか。本当に勉強する人を応援したい、といつも思っています。これは、その逆もある、ということです。
この人がこんなにできるようになるとは、ここまで成長するとは、という現象は、たしかに、この世に存在します。私も、経験したことがあり、教育者としては最大の喜びに属する現象だと、理解しています。昔、どんな学生も大化けする可能性をもっている、だから全員を徹底して指導せよ、と檄を飛ばす先生を見たこともあります。でも実際問題として、そんなことができるでしょうか。
教育現場における教員の負担は、重くなる一方です。しかも教員というのは、学生の指導さえしていればいい、というものではない。自分自身を向上させ、研究、演奏等の実績を上げていかなければ、本当の意味の指導はできません。また大学のような組織から見ると、少子化で収入増の望めない昨今、大化けさえ念頭に入れた徹底指導、などということに制度的保証を与えることは不可能です。少ない人数、限られた時間で多くの人数を教育するとなれば、一定の効率を追求することは、避けがたいのです。
そうなるとどうしても、選別が生じてきます。試験を受けて上に進む、いい成績をとって発表の権利を得る、という形です。試験に落ちた人の中にも磨けば光る人はいるかもしれない、という可能性はもちろんあり、そう感じられる人も多数見ていますが、そこまで手を広げる余裕はとうていない、というのが正直なところです。
ですから、教育を受けている側にも、結果を出す、少なくとも姿勢を見せる、というアピールは、必要だと思うのです。結果はすぐに出せないかもしれませんが、この人は勉強している、という印象を評価する側に抱かせることは、どんな場合にも、きわめて有効です。考えてみると、いわゆる「大化け」も、地道に努力している人にだけ、起こることのように思われます。違うでしょうか。
一定の緊張感のもとに、正当な競争をすること。それがレベルを高め、人材を育成することには欠かせない、というのは、分野を問わない真理なのではないでしょうか。本当に勉強する人を応援したい、といつも思っています。これは、その逆もある、ということです。
責任 ― 2010年07月05日 21時53分31秒
先々週の阿部雅子さん、今日の高橋織子さんと、博士後期課程声楽の方々の研究発表が上々の成果を収めました。これだけやってくれれば指導者としての責任を果たせたかなと、ほっとしています。
責任をもつ、責任を果たすというといい意味ですが、責任を感じる、責任を取る、責任を追及する、などと言うと、まったく違う意味になりますね。ニュースになるのはほとんど後者です。日本相撲協会をめぐってとか、最近多いですね。しかし行動規範の一般論として言えば、他人の責任ばかりあげつらうのは、どうかと思います。まず考えるべきは、自分の責任です。
具合の悪いことが起こり、下の人に「困った。どうしようか」と相談しました。するとその人は躊躇なく、自分に責任がないことを立証しようとするのです--過去に、複数回経験したことです。これほど白けることはありません。私が非難がましく話を向けたのならともかく、知恵を借りようとしただけなのに、一抜けた、と返されたことになるからです。
「どうしましょうか」と一緒に考えてくれるのが望ましい対応で、幸い、今周囲にいる人は、皆そうしてくれます。責任逃れを押し出すのは、損をするまいとして、じつは一番損な対応だと思います。
今度も、私がうっかりしていたことがあり、どうしようかと下の人に相談しました。するとその人は、私の責任です、気がつかずに申し訳ありません、と謝罪し、すぐ対応してくれるではありませんか。こういうのを、「親身な」対応というのですね。感謝しつつ、勉強しました。
責任をもつ、責任を果たすというといい意味ですが、責任を感じる、責任を取る、責任を追及する、などと言うと、まったく違う意味になりますね。ニュースになるのはほとんど後者です。日本相撲協会をめぐってとか、最近多いですね。しかし行動規範の一般論として言えば、他人の責任ばかりあげつらうのは、どうかと思います。まず考えるべきは、自分の責任です。
具合の悪いことが起こり、下の人に「困った。どうしようか」と相談しました。するとその人は躊躇なく、自分に責任がないことを立証しようとするのです--過去に、複数回経験したことです。これほど白けることはありません。私が非難がましく話を向けたのならともかく、知恵を借りようとしただけなのに、一抜けた、と返されたことになるからです。
「どうしましょうか」と一緒に考えてくれるのが望ましい対応で、幸い、今周囲にいる人は、皆そうしてくれます。責任逃れを押し出すのは、損をするまいとして、じつは一番損な対応だと思います。
今度も、私がうっかりしていたことがあり、どうしようかと下の人に相談しました。するとその人は、私の責任です、気がつかずに申し訳ありません、と謝罪し、すぐ対応してくれるではありませんか。こういうのを、「親身な」対応というのですね。感謝しつつ、勉強しました。
性善説/性悪説 ― 2010年06月23日 11時05分05秒
「名作」の公開を求める声が届いています。う~ん、どうしましょうか。
その前に、Claraさんのこだわっておられる、性善説と性悪説について、最近の考えを述べておきましょう。
私は、基本的に性悪説です。物心が付き、自分の心を見つめたときに、性悪説以外の選択肢は浮かびませんでした。人さまを観察して、そう思ったわけではありません。オレは人がいい、世の中にはそんなに悪い人はいない、だから性善説、という人に会うと、不思議でなりませんでした。
友人たちも、応援してくれたのですね。私、いい人だ、と言われたことが、ほとんどありません。早稲田の友人など、いつも私のことを、「いい性格している」と言ってくれました。こういう言い方、いけないと思います。外国人が、理解できません。だってこの場合の「いい」は、「悪い」という意味なのですから。
でも、若い頃の性悪説が、しだいに和らいできたのです。人間を理想化するから、性悪説になる。人間がいかに不完全かを実感し、それを赦す気持ちになれれば、性善説もあり得る、と思うようになったわけです。
要するに、性善説は、性悪説を通り抜けた先にしかあり得ない、というのが、私の結論です。その意味では、性悪説もやさしさの根源になりうる、と考えます。
〔付記〕「いけないと思います」というのは、冗談です。コメントをいただきましたので、念のため。
その前に、Claraさんのこだわっておられる、性善説と性悪説について、最近の考えを述べておきましょう。
私は、基本的に性悪説です。物心が付き、自分の心を見つめたときに、性悪説以外の選択肢は浮かびませんでした。人さまを観察して、そう思ったわけではありません。オレは人がいい、世の中にはそんなに悪い人はいない、だから性善説、という人に会うと、不思議でなりませんでした。
友人たちも、応援してくれたのですね。私、いい人だ、と言われたことが、ほとんどありません。早稲田の友人など、いつも私のことを、「いい性格している」と言ってくれました。こういう言い方、いけないと思います。外国人が、理解できません。だってこの場合の「いい」は、「悪い」という意味なのですから。
でも、若い頃の性悪説が、しだいに和らいできたのです。人間を理想化するから、性悪説になる。人間がいかに不完全かを実感し、それを赦す気持ちになれれば、性善説もあり得る、と思うようになったわけです。
要するに、性善説は、性悪説を通り抜けた先にしかあり得ない、というのが、私の結論です。その意味では、性悪説もやさしさの根源になりうる、と考えます。
〔付記〕「いけないと思います」というのは、冗談です。コメントをいただきましたので、念のため。
名作は時代を超えて ― 2010年06月21日 11時36分18秒
名作。それは人々に記憶され、長く、心に住みつきます。私は、そうした名作の研究と紹介に、人生を捧げてきました。そうしたら、なんと、私の書いたものが、(たのもーさんによれば)人の心に住みついたというではありませんか。そう、フランクフルト駅、931番のコインロッカーをめぐるお話です。
開かないコインロッカーの前で立ち尽くした血の凍るような感覚は、いまでも私の心に、生き生きとよみがえってきます。目的地は、バッハの国際学会。私の人生を左右するような分かれ道でした。その深刻きわまる体験を、当時の私は、かつてのホームページに連載したのです。
反響は、かつてないものでした。次々と寄せられる反応に接して、私は、人間とは何かに関する理解を、格段に深めました。それでどうしたんだ、早く次を書け、という大合唱。その中に、「でも帰国しているんだから、何とかなったんじゃないの?」というメッセージがありました。もちろん、その言葉に込められた真意は、私に伝わっています。コインロッカーが開かないことをこれだけ喜んでいただければ、私も本望です。その味は、「蜜の味」であったにちがいありません。
たのもーさんのように、コインロッカーの番号まで覚えてくださっている方もいらっしゃる。ありがたいことです。性善説の人であればここでショックを受けるのかもしれませんが、私は幸い性悪説なので、励みになりました。あと何年生きられるかわかりませんが、皆さんに楽しんでいただける人生を送りたいと思います。
最後に。東京駅の荷物は、日曜日の夕方、百円玉を12枚入れて取り出してきました。すぐ開きましたよ。
開かないコインロッカーの前で立ち尽くした血の凍るような感覚は、いまでも私の心に、生き生きとよみがえってきます。目的地は、バッハの国際学会。私の人生を左右するような分かれ道でした。その深刻きわまる体験を、当時の私は、かつてのホームページに連載したのです。
反響は、かつてないものでした。次々と寄せられる反応に接して、私は、人間とは何かに関する理解を、格段に深めました。それでどうしたんだ、早く次を書け、という大合唱。その中に、「でも帰国しているんだから、何とかなったんじゃないの?」というメッセージがありました。もちろん、その言葉に込められた真意は、私に伝わっています。コインロッカーが開かないことをこれだけ喜んでいただければ、私も本望です。その味は、「蜜の味」であったにちがいありません。
たのもーさんのように、コインロッカーの番号まで覚えてくださっている方もいらっしゃる。ありがたいことです。性善説の人であればここでショックを受けるのかもしれませんが、私は幸い性悪説なので、励みになりました。あと何年生きられるかわかりませんが、皆さんに楽しんでいただける人生を送りたいと思います。
最後に。東京駅の荷物は、日曜日の夕方、百円玉を12枚入れて取り出してきました。すぐ開きましたよ。
「支えられる」スタンス ― 2010年06月04日 23時59分07秒
音楽大学の数の論理があると思いますが、とかく女性の優勢な、私の環境です。ちなみに私は、高校も大学も、女性は4分の1ぐらい。男性が多数、という環境で、人間の基礎を作りました。そのためか、いまだに、驚くようなことがあります。
ある授業で。発表の順番をクジで決めることにし、最後のシャッフルを、A君に依頼しました。その結果一番手に決まったのが、Aさん(←誰だか探さないでね)。そうしたらAさん、「Aくん最低!」と叫ぶではありませんか。5回ぐらい言ったと思いますよ(笑)。文句を言いながらも、Aさん、いい発表をしました。
今日は、A君の発表。そしたらA君、「Aさんが最初になって申し訳なかったので、今日の発表はAさんに代わってできるよう、連休に作ってあったものだ」と言うではありませんか。私は思わず、女の子はつけあがる、甘やかしちゃいかん、と叫んでしまいました。美談ではあるが、そこまで下手に出なくても、いいんじゃないかなあ。まさに、男が女を支える構造を、目の当たりにしたわけです。
それも、社会の趨勢。必然性も、長所もあることなのでしょう。私はと言えば、女性に支えられるという形で仕事ができていることを感謝した次第です。人生ここまで来ては、支えられるというスタンスしか、選びようがありません。
ある授業で。発表の順番をクジで決めることにし、最後のシャッフルを、A君に依頼しました。その結果一番手に決まったのが、Aさん(←誰だか探さないでね)。そうしたらAさん、「Aくん最低!」と叫ぶではありませんか。5回ぐらい言ったと思いますよ(笑)。文句を言いながらも、Aさん、いい発表をしました。
今日は、A君の発表。そしたらA君、「Aさんが最初になって申し訳なかったので、今日の発表はAさんに代わってできるよう、連休に作ってあったものだ」と言うではありませんか。私は思わず、女の子はつけあがる、甘やかしちゃいかん、と叫んでしまいました。美談ではあるが、そこまで下手に出なくても、いいんじゃないかなあ。まさに、男が女を支える構造を、目の当たりにしたわけです。
それも、社会の趨勢。必然性も、長所もあることなのでしょう。私はと言えば、女性に支えられるという形で仕事ができていることを感謝した次第です。人生ここまで来ては、支えられるというスタンスしか、選びようがありません。
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