息子が父親を ― 2010年02月19日 23時15分30秒
藤原正彦さんの本には、お父さんの話がしょっちゅう出てきます。絶大な尊敬をこめて語られている。書きぶりから有名な人のようであり、誰だろうと思っていました。そうしたら、新田次郎さんなんですね。新田さんの息子さんとは知りませんでした。
それにしても、息子が父親をこんなに尊敬できるものなのかと、感心してしまいます。私は父を批判的に見ることが多く、男の子はすべからくそういうものかと思っていたからです。いずれにしても、父親が尊敬される家庭というのは理想であり、なかなか実現困難なのかな、と思ったりします。
昨日は紀尾井ホールで、東京室内歌劇場の公演を見てきました。モーツァルトの《偽の女庭師》です。詳細は新聞に書きますので控えますが、よく勉強された、とてもいい公演でした。こういう公演をこそ、応援したいと思います。
大局観の仮説 ― 2010年01月19日 11時45分07秒
著書の準備のため、DVDを観ています。今日はマーラーの交響曲だったのですが、昔は藪の中に迷い込むように思われたマーラーの交響曲が、今では手に取るようにわかることに、われながらびっくり。それはなぜか、と考えるうちに、ひとつの仮説を思いつきました。
単に聴き慣れたとか、古今の音楽をたくさん聴くうちに耳ができたとかいうことだけでは、ないように思うのです。私が年を取ったことと、関係はないだろうか。先日来、時間が速く過ぎてお正月への気持ちの備えもできないことを述べていますが、このことの主因は、私が年を取ったということですよね。このことと、マーラーがよくわかることと関係があるのではないか、と思ったわけです。
つまり、年齢とともに時間感覚のレベルが上がり、長い時間をパースペクティヴをもって展望できるようになる、ということは、ないでしょうか。指揮者が齢を重ねて巨匠になるというのも、こうしたパースペクティヴを獲得するからではないか。中国で尊重される「老」というのも、こうした感覚のゆえではなかろうか。老年の知恵があるとすれば、それは大局観として恵まれるのではないだろうか。
そんなことを考え始めました。理論化は、まだこれからです。
〔付記〕この文章は1月4日に書いて、そのままにしておいたものです。いまワーグナー論をひとつ書かなくてはならないのですが、そこにこの発想を使おうかと思っています。
総理はいい人? ― 2009年12月28日 11時21分31秒
学生さんの中には、何もそこまで、と思うぐらい、「いい人」がいます。すばらしい。じゃあ誰がいい人なのか、という話になると必ず問題になるのが、「いい人」の定義です。いま世間で、良かれ悪しかれいい人だ、と言われているのは、鳩山首相ですよね。ああいう人をいい人と言っていいのか、と、考え込んでしまいます。
とりわけひっかかるのは、以前他の政治家には、秘書と政治家は同罪、自分なら議員のバッジを外す、と言っていたにもかかわらず、自分に同じことが起こると責任を取らない、という点です。
意見が変わるのは、かまわないと思います。昔はこう思っていたが、今はそうは思わない、というのは、悪くない。人間は学習し、成長していくものだからで、むしろ、そうならない人の方が問題です。
しかし、それで人を攻撃した場合には、話が違うと思うのですね。他人は攻撃するが、同じ矛先が自分に向かってきたら逃げる、というのは卑怯者のすることで、それをするなら、よほど真摯な謝罪がなくてはならない。野党だから、与党だからということでは、絶対にないと思います。
要するにそれは、自分に甘く他人に厳しいという、このブログでもすでに述べた、最悪の形になると思うのです。そういう人を、いい人と言いたくありません。ほとほといやになりました。
だってそうでしょう! ― 2009年12月18日 23時20分41秒
小沢一郎さん、威張っていますねえ。私、威張る人、大嫌いです。それと、皇室に敬意のないことを歴然と示す人に、上に立ってほしくないと思います。思想や歴史観の問題としてでなく、礼節の問題としてです。
宮内庁長官を強烈批判した記者会見で、小沢さんはさかんに、「だってそうでしょう!」という言葉を使いました。この言葉が使われる場面にテレビなどで時折遭遇しますが、シチュエーションは必ず、自己正当化を強弁するときです。自分の言ったことに自分で賛成するレトリックを、本当に自信のある人が使うはずはありません。
私は経験から、「だってそうでしょう!」と次に言わなくてはならないような意見が正当なことはあり得ない、と感じています。「だってそうでしょう!」と来たら、即座に「それは違います!」と言っても間違いないのではないかとさえ、思っているのです。
大物かも ― 2009年12月04日 23時25分32秒
今週の水曜日。大学には行かなくてもいい週なのですが、会議があってはやむを得ません。またこの会議か、仕方ないな、ということで、学生の指導を2つ入れ、併せて学長に面談を申し込みました。いくつかお考えを伺いたいので、会議が順調に終わったらお願い、という依頼メールです。
すると学長から、今日会議はないが、その時間なら大丈夫です、という返信。私は、いや会議はいっしょの筈ですよ、と返しました。しばらくして再度返信。手帳に付け忘れたかとびっくりし、いろいろな部局に問い合わせたが、今日会議はないと思われる、とのことです。私も不思議に思い、召集令状を見たら、平成20年12月3日(水)とありました。なるほど、去年のことでしたか。
でも私は、なにやら自信が出てきたのですね。話のスケールが大きい。周囲でも時間を間違えたという話はよく聞きますが、たいていは、1時間間違えたとか、1週間間違えたとか、小さい話ばかりです。そんな話に比べれば、1年ドーンと間違える私は、文字通り大物と言えるのではないでしょうか。
1年じゃまだ小さいよ、とおっしゃるあなた。そりゃもちろん、5年単位、10年単位で間違える人があらわれれば私も甲を脱ぎますが、それは難しいんじゃないでしょうか。いや間違えた、という方がおられたら、書き込みをお願いします。
わかりにくい人 ― 2009年11月17日 17時29分20秒
わかりやすい人と、わかりにくい人がいます。私自身はどちらか。それは、今日は置いておきます。いずれにしろ、わかりにくい人というのは、評価がむずかしい。平凡かもしれないし、大人物かもしれないからです。死後評価が定まる、というケースも、こういう人の場合には考えられます。
念頭に置いているのは、鳩山首相です。人品高潔な感じはしますが、わかりにくい感も否めない。就任後述べておられるのは一貫して理想論で、昔学校で聞いたような美しい考えを本当に語る人がいることに、驚きます。現場の大臣たちが汗をかいている中でトップが理想論を語り続けるというのは、高度な戦略に基づいて意識的にそうしているのか、あるいは自分だけいい子になりたいという王子様気質なのか。いったいどちらなのか、興味があります。
なにかと語られる「先送り」も、長期的展望のもとにわざとそうしているのであれば、話は変わってきます。半年後、1年後に、なるほどそうだったのか、そこまで先を見ていたのか、となるのか、ならないのか。なる可能性もゼロではないような気がするので、注目しています。
どうしても気になるのは、副詞が過剰なことです。「適切でない」と断定すべきところで、「必ずしも適切でない」と、たいてい婉曲に表現される。もちろん、頭から「笑止千万」などと決めつける物言いは最悪ですが、物を書く職業である私からすると、「必ずしも」があるかないかで、意味は大きく変化します。少なくとも表現は、わかりやすい方がいいと思います。
クイズ新趣向 ― 2009年11月04日 22時39分22秒
先週になりますが、新著に直接間接にかかわった方々が、ささやかな出版記念会を開いてくださいました。いつものオフ会より、やや平均年齢が上だったでしょうか。
会となるとクイズを作りたくなるのが、私の性癖。今回新しい趣向を考えましたので宣伝します。3問ありますが、3択ではありません。
第1問は、主賓である私にふさわしい名詞を皆さんに考えていただく、というもの。持ち寄られたところで公表し、どれが傑作かを投票して、上位の人が得点を得る、という趣向です。
皆さん私に華を持たせてくださるに違いありませんので、「いやあ、過分のお言葉で、照れますね。でも今日はいただいておきます。ありがとうございます」というコメントを用意していました。
ところが。同票で1位になったのは、「アンチ巨人」と「七転八倒」だったのです。何ですかこれは。「七転び八起き」ならまだしも、「七転八倒」はないですよね、皆さん。その下には「ダブルブッキング」があり、「油断」とか「罪滅ぼし」というのもある。はいはい、自分が皆さんの目にどう映っているか、よくわかりました。
私は参加者の分だけ、四文字熟語を考えました。「剛毅木訥」とか「前途洋々」とか、いいのをたくさん揃えました。どれが誰に当てはまるかを考えていただくのが、次の問題です。
第2問は、これは自分だ、と思うものに手を挙げていただく、という趣向。当たると高得点です。たとえば「才色兼備」というのがあるとすると、自分だといいな、と思う女性がいらっしゃると思うのですね。しかし手を挙げるのはきっと、勇気がいる。誰が厚かましく手を挙げるかを見て楽しめるように、この問題はなっているのです。そのあと、どれが自分以外の誰に当てはまるかを5人分推測してもらうというのが、第3問でした。
どうです、皆さんもパーティで使ってみませんか。四文字熟語には女性用のいい言葉が少なく難儀をしましたが、寿司ネタとか鳥の名前とか、いろいろな応用ができると思います。
続・謝罪考 ― 2009年09月09日 22時56分54秒
外に対する謝罪、内に対する謝罪という分類をしましたが、どちらにも含まれない、第3の謝罪があることに気づきました。神様に対する謝罪です。日本の伝統に則して言えば、「お天道様に対する謝罪」ということになるかもしれません。
まあこれは、人道的・道徳的観点からの反省、というのと同じことです。そう言ったのでは、抽象的で味気ないですが・・。教会に通っている人であれば、それが懺悔とか告解といった形を取るのだと思います。その究極的な形、将来への誓約を含む形が、「悔い改め」と呼ばれるものなのではないでしょうか。悔い改めは赦しの前提ですから、Claraさんのコメントにあるような「謝るぐらいなら最初からしないでよ」とおっしゃる方に、赦しはやってきません。
憐れみの祈りも、神への謝罪のひとつの形態と考えると、わかりやすいかもしれませんね。eleison、miserere、erbarme dich・・・。謝罪について考えているうちに、バッハの歌詞の中心部にたどりついてしまったようです。「憐れんでください」とはどういうことか、いつも考えていますが、素直に謝る気持ちの延長線上にあることは確かだと思います。
謝罪考 ― 2009年09月07日 22時03分42秒
熊本で挨拶にいらした3人の方が、私が初めて国立音大で授業(音楽美学)したときの思い出を語られました。それによりますと、私は、「たくさん用意してきた資料のごくわずかしかお話できなかった、申し訳ない」と言って、授業を終えたのだそうです(記憶なし)。私の教員活動が謝罪とともに始まったということが、われながら興味深く思われました。
ダブルブッキングなどを繰り返す報いとして、私は日常生活において、ひんぱんに謝ります。頻度はどうかなと思っていろいろな人を観察してみると、さかんに謝る人がいる反面、けっして謝らない人も、ある程度いることに気づきました。謝らない人のメンタリティはどんなものかなあと考えましたが、よくわかりません。
かくいう私にも、謝りにくい時や、謝りたくない時というのがあります。謝って当然だと周囲が思っている時にはかえって謝りにくく感じるのは、私だけでしょうか。謝れ、と言われている時に謝るのは、もっとむずかしい。メンツがからんでくるからでしょう。ですから、一般に謝罪の要求というのは、人間関係を損ねると思います。
さらに考えるうち、私は家庭でめったに謝らないことに気づきました。外では謝るが、家では謝らない人。外でも家でも謝る人。外でも家でも謝らない人。外では謝らないが、家では謝る人。皆さんはどちらでしょう。また、望ましいのはどのタイプでしょうか(笑)。
繰り返される報道 ― 2009年08月22日 23時30分51秒
覚醒剤の件、報道は繰り返しに入っていますが、それでも見てしまうのは、話題の主の華麗な容姿のゆえに違いありませんよね。美しい映像が、あとからあとから出てきます。「清純派」の話題は当室では未遂に終わりましたが、報道では完全にNS=清純派という等式になっており、清純派の概念も同時に、疑惑に包まれてしまいました。等式が本当に正しいかどうか、吟味も必要でしょうが。
私は美学の出身ですから、こんなとき、美とは何だろうと考えます。美は人の心に非現実的な期待を生み出し、思い込みによる虚像を拡大する。それは一面で、さまざまな悲劇や弊害を生み出します。女性は一般に、物心つき、恋をしながら美しくなってゆくものだと思うので、少女時代からきわだって美しいというのは、それなりの環境を前提とする、ということはないでしょうか。
いつも多大な気持ちの負担を伴いながら、進むにつれて充実感を覚えるのが、合唱コンクールです。たいへん疲れましたが、明日もう一日、がんばります。
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