至福の時 ― 2013年03月11日 23時59分19秒
10日(日)は、横浜みなとみらいへ、ハイティンク指揮のロンドン響を聴きに行きました。まずピリスがベートーヴェンの第2協奏曲を弾き、メインがブルックナーの第9、というプログラムでした。
たとえ客席にいても、涙を流すのはみっともないと思っている私ですが、このコンサートのすばらしさは筆舌に尽くしがたく、身体がわななくほど感動してしまって、涙が止まりませんでした。
感想は新聞批評にまとめましたので、そちらに委ねたいと思います。読み直してみると、祝福、神、大自然、幸福、祈りといった言葉が使われています。こういう言葉をつい使ってしまう演奏家が、まだいるのですね。新陳代謝がよくなって、寿命が延びました。
たとえ客席にいても、涙を流すのはみっともないと思っている私ですが、このコンサートのすばらしさは筆舌に尽くしがたく、身体がわななくほど感動してしまって、涙が止まりませんでした。
感想は新聞批評にまとめましたので、そちらに委ねたいと思います。読み直してみると、祝福、神、大自然、幸福、祈りといった言葉が使われています。こういう言葉をつい使ってしまう演奏家が、まだいるのですね。新陳代謝がよくなって、寿命が延びました。
躍動する女子高生 ― 2013年02月25日 10時02分04秒
タイトルを見て、オッと身を乗り出されたあなたに質問。「池鯉鮒」と書いて、何と読むかご存じですか。では、「知立」は?
正解はどちらも「ちりゅう」。東海道の宿場町で、前者が当時の名、後者が今の市名です(にわか勉強)。その昔、在原業平を慕って八橋というところまで彼を追ってきた来た姫が入水し、そこに美しいかきつばたが花開いたという「姫塚」の民話が、この地(愛知県)にあるそうです。その哀しい物語から一連のオリジナル芸術を作り出し、「まちおこし」として展開しようというのが、「ちりゅう芸術創造協会」の構想。24日(日)に「パティオ池鯉鮒」(写真の総合文化施設)を訪れ、その本年度版であるダンスのイベントを見てきました。

演出・振付・主演を兼ねたダンサー、森山開次さんの新作、「光・かきつばた姫」に、すっかり魅了されました。現代の教室から当時を振り返る構想がじつにしゃれていて、近隣の光ヶ丘女子高校ダンス部の生徒たちとの強い連帯感のもとに、ステージが進められます。しゃれているといえば、板倉ひろみさんの作曲がまたいい。その質の高い音楽を、舞台奥のオーケストラ(角田鋼亮指揮の愛知室内オーケストラ)がしっかりと届けてきます。何より、ダンス部の女子生徒たちの若さ全開のパフォーマンスが圧巻。数十人が水も漏らさぬ統一をなしながら、一様に、キラキラした個の光を放しているのです。
地域に密着しつつ、これだけ質の高いオリジナル・イベントを作り上げるのはたいしたもの。企画に脱帽です。
集中できる音楽空間 ― 2013年02月14日 22時58分45秒
うかつな人はおられるもので、「宮崎旅行中すみません。カツオのたたき、うらやましくて死にそうです」などというメールを頂戴しました。あの、宮崎に泊まったのは先週の土曜日ですよ。
遠距離の視察は、仕事にかかる時間に比べ、アプローチにかかる時間が長くなります。そこで頭をもたげるのが、「どうせ行くのだから」という考え。私もそうで、日曜日は鹿児島経由、新幹線を乗り継ぎ、途中下車してはおいしいものを食べて帰って来よう、と計画していました。
ところが気づいたのですね、10日の日曜日は午後、立川で私の仕切るコンサートがあることに。これでは飛行機でとんぼ返りし、リハーサルに駆けつけるのが精一杯です。あわただしいこと、この上なし。
立川で開いたのは、12月に須坂で行ったコンサートの東京版でした。出演者たちの熱望が、いろいろな方のご協力で実現したのです。メインタイトルが「春を呼ぶ音楽会」、サブタイトルが「立川26年、須坂10年…合計36歳の音楽会」。両都市で続けてきた講座が、私の中で、分かちがたく融合するに至っている昨今です。
コンサートについては須坂のおりに書きましたので繰り返しません。しかし今回書いておきたいのは、会場となった「セレモア・コンサートホール武蔵野」についてです。すずらん通りという立川駅からやや離れたところにあり、斎場内という立地でもありますから、訪れにくいとおっしゃる方もおられることでしょう。しかしこのホールが仲間内でのコンサートの場としてすばらしい効果を発揮することを、今回再認識したのです。
なにしろ音響設計が、永田穂先生。広くはないがゆったりくつろげる空間に、ベーゼンドルファー、プレイエル、エラールのピアノが並び、クラヴィコードもあります。そこに今回は、チェンバロを持ち込みました。照明を工夫してみると解説の話がたいへんしやすく、全員が自然にまとまって、音楽に集中できます。聴衆は「たのくら」の会員が中心でしたが、皆さん、同様の感想をもたれたようです。加えて献身的なサポートを、出演者に対してというよりはイベントに対して、してくださるのです。
現在のところ貸しホールはしていないようですが、ここでまたコンサートを開きたいと思います。その際は、ぜひお出かけください。
遠距離の視察は、仕事にかかる時間に比べ、アプローチにかかる時間が長くなります。そこで頭をもたげるのが、「どうせ行くのだから」という考え。私もそうで、日曜日は鹿児島経由、新幹線を乗り継ぎ、途中下車してはおいしいものを食べて帰って来よう、と計画していました。
ところが気づいたのですね、10日の日曜日は午後、立川で私の仕切るコンサートがあることに。これでは飛行機でとんぼ返りし、リハーサルに駆けつけるのが精一杯です。あわただしいこと、この上なし。
立川で開いたのは、12月に須坂で行ったコンサートの東京版でした。出演者たちの熱望が、いろいろな方のご協力で実現したのです。メインタイトルが「春を呼ぶ音楽会」、サブタイトルが「立川26年、須坂10年…合計36歳の音楽会」。両都市で続けてきた講座が、私の中で、分かちがたく融合するに至っている昨今です。
コンサートについては須坂のおりに書きましたので繰り返しません。しかし今回書いておきたいのは、会場となった「セレモア・コンサートホール武蔵野」についてです。すずらん通りという立川駅からやや離れたところにあり、斎場内という立地でもありますから、訪れにくいとおっしゃる方もおられることでしょう。しかしこのホールが仲間内でのコンサートの場としてすばらしい効果を発揮することを、今回再認識したのです。
なにしろ音響設計が、永田穂先生。広くはないがゆったりくつろげる空間に、ベーゼンドルファー、プレイエル、エラールのピアノが並び、クラヴィコードもあります。そこに今回は、チェンバロを持ち込みました。照明を工夫してみると解説の話がたいへんしやすく、全員が自然にまとまって、音楽に集中できます。聴衆は「たのくら」の会員が中心でしたが、皆さん、同様の感想をもたれたようです。加えて献身的なサポートを、出演者に対してというよりはイベントに対して、してくださるのです。
現在のところ貸しホールはしていないようですが、ここでまたコンサートを開きたいと思います。その際は、ぜひお出かけください。
この数日 ― 2013年02月08日 10時44分43秒
ちょっと間が空いてしまいました。この数日間を振り返っておきます。
2日(土)。バッハの世俗カンタータのクォリティを新宿の講座で確認したあと、走るように大阪へ移動。いずみシンフォニエッタの定期を聴きました。まもなく還暦を迎えられる音楽監督、西村朗さんをお祝いしての、オール西村プログラムです。宇宙的な思索を追求しつつも誰にもわかりやすく訴えてくる西村さんの作品はひとつの驚異だと思っていますが、西村作品を知悉したシンフォニエッタの高いクォリティにカール・ライスターの名人芸まで加わって、すばらしいコンサートになりました。雄弁なスコアを書いてきた西村さんの最新作(室内交響曲第4番)が、響きの間合いを重んじたものになってきたのは注目に値します。題して、《沈黙の声》。
1週間に3回も新幹線の往復をしたものですから、3日の日曜日は疲れてしまい、まったくやる気が出ませんでした。やっぱり過労はダメですね。4日(月)に仕事を再開。6日(水)の《マタイ》講座の準備をまず済ませ、資料を朝日カルチャーに送ったところ、担当者から、「こんなに早くいただいては、雪が降っちゃうじゃありませんか」との返信。関東に、大雪の危機が迫っていたのです。
5日(火)にマッサージ(新橋)と床屋(日本橋)を済ませて帰宅すると、朝日カルチャーから、大雪で休講になる場合は早朝に決定し、連絡する、という知らせが入りました。反射的に、しめた!という心の叫び。雪を楽しみにするのでは人様に迷惑ですが、子供の頃からよく陥った心理です。でも世の中、そう甘くはないですね。講座には皆さんしっかりおいでになり、盛り上がりました。
7日(木)は、「都市ミュンヘンとミュンヘン・フィル~その魅力を探る」という講演を、朝日新聞社で。場所が場所なので緊張しましたが、準備は十分にしましたので、責任は果たせたと思います。
ミュンヘン・フィルは1928年に市の楽団となってこの名称を得ましたが、それまでは「カイム管弦楽団」という個人所有のオーケストラで、1893年から活動していました。歴代の指揮者には、ワインガルトナーや作曲家プフィッツナーの名前があります。調べてみると、マーラーの第4、第8交響曲をマーラー自身の指揮で、《大地の歌》をワルターの指揮で初演したことになっています。
はて、カイム管弦楽団という名前を文献で見た記憶がないが、と思って手元の複数の資料を見たところ、どちらにも、「マーラー自身の指揮でミュンヘンで初演」「ワルターの指揮でミュンヘンで初演」という表現になっており、カイムという名前がありません。よく調べたわけではないですが、伝承の不備かもしれませんね。
終了後早々に抜け出し、オペラシティへ。サロネン指揮、フィルハーモニアのコンサートで、新聞批評の当番です。ルトスワフスキの第4交響曲はたいへんすばらしかったですが、ベートーヴェンには私として異論があり、どう書くべきか悩んでいるところ。批評の心理的負担から、なかなか抜け出すことができません。
2日(土)。バッハの世俗カンタータのクォリティを新宿の講座で確認したあと、走るように大阪へ移動。いずみシンフォニエッタの定期を聴きました。まもなく還暦を迎えられる音楽監督、西村朗さんをお祝いしての、オール西村プログラムです。宇宙的な思索を追求しつつも誰にもわかりやすく訴えてくる西村さんの作品はひとつの驚異だと思っていますが、西村作品を知悉したシンフォニエッタの高いクォリティにカール・ライスターの名人芸まで加わって、すばらしいコンサートになりました。雄弁なスコアを書いてきた西村さんの最新作(室内交響曲第4番)が、響きの間合いを重んじたものになってきたのは注目に値します。題して、《沈黙の声》。
1週間に3回も新幹線の往復をしたものですから、3日の日曜日は疲れてしまい、まったくやる気が出ませんでした。やっぱり過労はダメですね。4日(月)に仕事を再開。6日(水)の《マタイ》講座の準備をまず済ませ、資料を朝日カルチャーに送ったところ、担当者から、「こんなに早くいただいては、雪が降っちゃうじゃありませんか」との返信。関東に、大雪の危機が迫っていたのです。
5日(火)にマッサージ(新橋)と床屋(日本橋)を済ませて帰宅すると、朝日カルチャーから、大雪で休講になる場合は早朝に決定し、連絡する、という知らせが入りました。反射的に、しめた!という心の叫び。雪を楽しみにするのでは人様に迷惑ですが、子供の頃からよく陥った心理です。でも世の中、そう甘くはないですね。講座には皆さんしっかりおいでになり、盛り上がりました。
7日(木)は、「都市ミュンヘンとミュンヘン・フィル~その魅力を探る」という講演を、朝日新聞社で。場所が場所なので緊張しましたが、準備は十分にしましたので、責任は果たせたと思います。
ミュンヘン・フィルは1928年に市の楽団となってこの名称を得ましたが、それまでは「カイム管弦楽団」という個人所有のオーケストラで、1893年から活動していました。歴代の指揮者には、ワインガルトナーや作曲家プフィッツナーの名前があります。調べてみると、マーラーの第4、第8交響曲をマーラー自身の指揮で、《大地の歌》をワルターの指揮で初演したことになっています。
はて、カイム管弦楽団という名前を文献で見た記憶がないが、と思って手元の複数の資料を見たところ、どちらにも、「マーラー自身の指揮でミュンヘンで初演」「ワルターの指揮でミュンヘンで初演」という表現になっており、カイムという名前がありません。よく調べたわけではないですが、伝承の不備かもしれませんね。
終了後早々に抜け出し、オペラシティへ。サロネン指揮、フィルハーモニアのコンサートで、新聞批評の当番です。ルトスワフスキの第4交響曲はたいへんすばらしかったですが、ベートーヴェンには私として異論があり、どう書くべきか悩んでいるところ。批評の心理的負担から、なかなか抜け出すことができません。
農民の《田園》 ― 2013年01月28日 12時17分24秒
「北海道農民管弦楽団」というアマチュア・オーケストラをご存じですか?宮沢賢治の『農民芸術概論綱要』の理想を実現せんと北海道の農業関係者によって組織され、「鋤で大地を耕し、音楽で心を耕す」をモットーに、農閑期に集まって活動しているオーケストラです。勝負曲は、もちろん《田園》交響曲です。
と紹介しておりますが、不肖私、まったく存じませんでした(汗)。認知のきっかけは、「ウィーン・フィル&サントリー音楽復興祈念賞」への応募です。無事採択となり、1月27日(日)にそのコンサートが、賢治ゆかりの都市、花巻の市文化会館で行われました。じつのところ半信半疑で視察に出かけたのですが、早朝発の旅行記については、また別の機会に。
後発の東北農民管弦楽団、金星少年少女オーケストラ(←賢治つながり)も一部参加したコンサートは、賢治にちなむ新作《星めぐりの歌による幻想曲》(当日の指揮者、牧野時夫氏作曲)を交えた、多彩なプログラム。しかし看板に偽りなしで、大地に根を生やしたゆるぎないもの、音楽と正面から向かい合う気骨が、演奏にあるのです。
最後に演奏された《田園》には、その意味で本当に驚かされ、感嘆しました。とくに第2楽章の〈小川のほとりの情景〉。木管楽器のハイレベルなアンサンブルに聴き惚れていると、そこにいつしかオーケストラ全体の響きが集まり、自然と人間のよき交流の姿が、文字通り自然に、農業にかかわる方々ならではの裏付けをもって描かれていきました。ここに至るまでの活動の困難さは想像に余りありますので、それだけ驚きも大きかった、ということです。
祈念賞がこうした活動を少しでも知らしめる役割を果たすとしたら、本当に嬉しいことです。
と紹介しておりますが、不肖私、まったく存じませんでした(汗)。認知のきっかけは、「ウィーン・フィル&サントリー音楽復興祈念賞」への応募です。無事採択となり、1月27日(日)にそのコンサートが、賢治ゆかりの都市、花巻の市文化会館で行われました。じつのところ半信半疑で視察に出かけたのですが、早朝発の旅行記については、また別の機会に。
後発の東北農民管弦楽団、金星少年少女オーケストラ(←賢治つながり)も一部参加したコンサートは、賢治にちなむ新作《星めぐりの歌による幻想曲》(当日の指揮者、牧野時夫氏作曲)を交えた、多彩なプログラム。しかし看板に偽りなしで、大地に根を生やしたゆるぎないもの、音楽と正面から向かい合う気骨が、演奏にあるのです。
最後に演奏された《田園》には、その意味で本当に驚かされ、感嘆しました。とくに第2楽章の〈小川のほとりの情景〉。木管楽器のハイレベルなアンサンブルに聴き惚れていると、そこにいつしかオーケストラ全体の響きが集まり、自然と人間のよき交流の姿が、文字通り自然に、農業にかかわる方々ならではの裏付けをもって描かれていきました。ここに至るまでの活動の困難さは想像に余りありますので、それだけ驚きも大きかった、ということです。
祈念賞がこうした活動を少しでも知らしめる役割を果たすとしたら、本当に嬉しいことです。
負けました ― 2012年12月12日 23時59分13秒
「先生、今日は影が薄かったですね」「・・・・」。完敗です(楽しいクラシックの会コンサート2012)。
紹介トークを終え、ステージを降りるとき、下手でスタンバイしておられる出演者、塚越慎子さんと目が合いました。一杯の笑顔なのですが、そこにもりもりとした覇気がみなぎって、食べられてしまいそう。この目、どこかで見たことがあるなあ・・・。あとからわかりました。柔道の松本薫さん!印象は真逆なのですが、燃えるような集中力において、似ているのです。
練習のときから立ち会ってきた、バッハの《シャコンヌ》。マリンバですぐ弾けるわけではないので、苦労を重ねたというところですが、本番では試行錯誤がすべて栄養となって、格段に充実した流れになっている。「本番に強い」といえば、その一語に尽きます。
《シャコンヌ》終了後、インタビュー。質問に、蕩々とみごとな弁舌が返ってきます。平素は天然ボケ(失礼)に見えるお嬢さんが、なんでこうなるの?いるのですね、ステージに立つと断然輝いてしまう人が。
この時点で認識したのは、私のトークなど、天才的な方の前ではまったく無力だ、ということです。そこで自分の務めは最低限で終わらせ、「老兵は死なず、消え去るのみ」などという言葉を想起しつつ、あとはすべて、彼女にまかせることにしました。躍動のマリンバ。すばらしかったです(冒頭に戻る)。
紹介トークを終え、ステージを降りるとき、下手でスタンバイしておられる出演者、塚越慎子さんと目が合いました。一杯の笑顔なのですが、そこにもりもりとした覇気がみなぎって、食べられてしまいそう。この目、どこかで見たことがあるなあ・・・。あとからわかりました。柔道の松本薫さん!印象は真逆なのですが、燃えるような集中力において、似ているのです。
練習のときから立ち会ってきた、バッハの《シャコンヌ》。マリンバですぐ弾けるわけではないので、苦労を重ねたというところですが、本番では試行錯誤がすべて栄養となって、格段に充実した流れになっている。「本番に強い」といえば、その一語に尽きます。
《シャコンヌ》終了後、インタビュー。質問に、蕩々とみごとな弁舌が返ってきます。平素は天然ボケ(失礼)に見えるお嬢さんが、なんでこうなるの?いるのですね、ステージに立つと断然輝いてしまう人が。
この時点で認識したのは、私のトークなど、天才的な方の前ではまったく無力だ、ということです。そこで自分の務めは最低限で終わらせ、「老兵は死なず、消え去るのみ」などという言葉を想起しつつ、あとはすべて、彼女にまかせることにしました。躍動のマリンバ。すばらしかったです(冒頭に戻る)。
小さな場でこそできること ― 2012年12月11日 00時03分13秒
「ちらちらと粉雪の降りしきる、ある寒い冬の日のことでした」・・・幼稚園のとき、劇のコメンテーターに選ばれて、暗記した文章です。アンデルセンかな。そういう光景に、久しぶりに出会いました。9日のコンサートを終え、山田温泉に泊まり、満ち足りて迎えた宿の朝、そして長野駅での印象です。
ホールとは言っても、駅前の小さなホール。ワンフロアに椅子を並べる急造の空間で行われた「すざかバッハの会10周年記念コンサート」でした。仕切った私が良かった良かったというのもどうかとは思いますが、コンサートの良さはホールが立派かどうか、お金がかかっているかどうか、有名なアーチストを集めているかどうかということとは別だ、という気持ちが決定的になる、昨日の体験でした。
なにしろ私が話に伺って、10年も続いている会です。集まってくださる方々には、すでにしてまとまりと、音楽に集中するスタンスがある。出演者の側も、私の信頼する友人たちで、皆さん、小さな場でも全力投球してくださる音楽家です。こうした前提があるだけで、音楽会の雰囲気は、まったく違ってくる。昨日のコンサートはこうした要因がことごとく噛み合って、私としても、何事にも代えがたいひとときになりました。
今私に欠かせないアーチストが、ピアニストの久元祐子さん。この方の知的で深い芸術解釈を尊敬し評価することが第一ですが、加えてこの方はオペラや歌曲の伴奏がすばらしく、それを進んで引き受けてくださるのです。この日もベートーヴェンの変イ長調ソナタ(←じつに潤いに満ちた演奏)、シューベルトの変ホ長調即興曲のあとに、宗教音楽と歌曲、オペラのプログラムを、すべて伴奏していただきました。お客様もわかっておられ、曲ごとにがらりと変わる音楽的なピアノに、賛辞が集中しました。
長野在住のトラヴェルソの名手、塩嶋達美さんが調達してくださったチェンバロでモンテヴェルディとバッハを演奏したのは、BCJの常連である、テノールの谷口洋介さん。甘さのある美声と高度なベルカントの技巧を備えた方で、〈ベネディクトゥス〉(《ロ短調ミサ曲》)のような難曲も長いブレスで、いとも自然に歌われます。今回は《カルメン》の二重唱という「専門外」の曲を無茶振り(←得意)していたのですが、大武彩子さんとのアンサンブルの音楽性の高さには、びっくりしました。これからの大戦力です。大武さんのスーパー・コロラトゥーラが大喝采を浴びたのは、想定内でした。
これでも十分に成り立つコンサートでしたが、今回は何より、岩森美里さんの貢献に感謝しなくてはなりません。カルメン、デリラなどで示された岩森さんの歌には、底知れぬ世界の広さと、燃えさかる情熱があります。とにかく人柄のいい方なので、そのカリスマ性に、みんな魅入られてしまう。アンコールで私に捧げるとおっしゃって歌ってくださった十八番、《小さな空》(武満徹)には、涙あるのみでした。その涙は、お客様の多くにも伝染していたようです。
本当にささやかなコンサートなのですが、私としてはとても大きな出来事。こんなコンサートを、これからも積み重ねていきたいと思います。
ホールとは言っても、駅前の小さなホール。ワンフロアに椅子を並べる急造の空間で行われた「すざかバッハの会10周年記念コンサート」でした。仕切った私が良かった良かったというのもどうかとは思いますが、コンサートの良さはホールが立派かどうか、お金がかかっているかどうか、有名なアーチストを集めているかどうかということとは別だ、という気持ちが決定的になる、昨日の体験でした。
なにしろ私が話に伺って、10年も続いている会です。集まってくださる方々には、すでにしてまとまりと、音楽に集中するスタンスがある。出演者の側も、私の信頼する友人たちで、皆さん、小さな場でも全力投球してくださる音楽家です。こうした前提があるだけで、音楽会の雰囲気は、まったく違ってくる。昨日のコンサートはこうした要因がことごとく噛み合って、私としても、何事にも代えがたいひとときになりました。
今私に欠かせないアーチストが、ピアニストの久元祐子さん。この方の知的で深い芸術解釈を尊敬し評価することが第一ですが、加えてこの方はオペラや歌曲の伴奏がすばらしく、それを進んで引き受けてくださるのです。この日もベートーヴェンの変イ長調ソナタ(←じつに潤いに満ちた演奏)、シューベルトの変ホ長調即興曲のあとに、宗教音楽と歌曲、オペラのプログラムを、すべて伴奏していただきました。お客様もわかっておられ、曲ごとにがらりと変わる音楽的なピアノに、賛辞が集中しました。
長野在住のトラヴェルソの名手、塩嶋達美さんが調達してくださったチェンバロでモンテヴェルディとバッハを演奏したのは、BCJの常連である、テノールの谷口洋介さん。甘さのある美声と高度なベルカントの技巧を備えた方で、〈ベネディクトゥス〉(《ロ短調ミサ曲》)のような難曲も長いブレスで、いとも自然に歌われます。今回は《カルメン》の二重唱という「専門外」の曲を無茶振り(←得意)していたのですが、大武彩子さんとのアンサンブルの音楽性の高さには、びっくりしました。これからの大戦力です。大武さんのスーパー・コロラトゥーラが大喝采を浴びたのは、想定内でした。
これでも十分に成り立つコンサートでしたが、今回は何より、岩森美里さんの貢献に感謝しなくてはなりません。カルメン、デリラなどで示された岩森さんの歌には、底知れぬ世界の広さと、燃えさかる情熱があります。とにかく人柄のいい方なので、そのカリスマ性に、みんな魅入られてしまう。アンコールで私に捧げるとおっしゃって歌ってくださった十八番、《小さな空》(武満徹)には、涙あるのみでした。その涙は、お客様の多くにも伝染していたようです。
本当にささやかなコンサートなのですが、私としてはとても大きな出来事。こんなコンサートを、これからも積み重ねていきたいと思います。
暗さの探究 ― 2012年11月14日 15時48分04秒
名古屋のしらかわホールでリサイタルを開かれたのは、ピアニストの長野量雄さん。私心なく音楽に打ち込む方を尊敬する私には、得がたい友人です。聖心の授業を終えてから名古屋入りして宿泊、翌日大阪に向かうという計画を立てました。
常に高いところを見据えて真摯に音楽作りをされる長野さん、今年のリサイタルのテーマは「終焉」(!)。モーツァルトのロ短調の《アダージョ》を皮切りに、シューベルトのニ長調ソナタ、ベルクのソナタ、シューベルト=リストの《白鳥の歌》から、最後にワーグナー=リストの《愛の死》と、重い曲目が並んでいます。
暗きを目指す構想は、もちろん私も望むところ。シューベルトが〈すみか〉〈海辺にて〉〈影法師〉と進む頃には、暗さも深みを増し、深淵の趣。最後、ピアノに集約されたトリスタン和声がそれを受け止めて法悦へと導くところでは、感動の沸き上がるのを覚えました。
長野さんを敬愛する若い人達が集まった打ち上げも楽しく、行って良かったです。ここにこの人ありと、ご紹介いたします。
常に高いところを見据えて真摯に音楽作りをされる長野さん、今年のリサイタルのテーマは「終焉」(!)。モーツァルトのロ短調の《アダージョ》を皮切りに、シューベルトのニ長調ソナタ、ベルクのソナタ、シューベルト=リストの《白鳥の歌》から、最後にワーグナー=リストの《愛の死》と、重い曲目が並んでいます。
暗きを目指す構想は、もちろん私も望むところ。シューベルトが〈すみか〉〈海辺にて〉〈影法師〉と進む頃には、暗さも深みを増し、深淵の趣。最後、ピアノに集約されたトリスタン和声がそれを受け止めて法悦へと導くところでは、感動の沸き上がるのを覚えました。
長野さんを敬愛する若い人達が集まった打ち上げも楽しく、行って良かったです。ここにこの人ありと、ご紹介いたします。
日生劇場の《メデア》 ― 2012年11月10日 15時11分59秒
いま大阪に向かう車中です。昨夜は日生劇場に、アリベルト・ライマンのオペラ《メデア》を見に行きました。阿鼻叫喚のシーンも頻出する前衛オペラですが、書法の密度は高く、演奏・演出((飯塚励生)のすばらしさもあり、類いまれな迫力に、手に汗を握りました。
下野竜也指揮、読響は演奏に勢いがあり、進むにつれ、艶やかな凄味を表出。コロスに相当するモダン・ダンスも良かったです。
長木誠司さんの書かれた名解説に、古典的な教育しか受けていない歌い手ではおそらく2小節も歌えないだろう、というくだりがありました。それだけに飯田みち代さんを始めとするキャストの頑張りが称えられるわけですが、人声に無理をさせることを競うような現代オペラのあり方もどうなんだろう、という思いも頭をよぎりました。
下野竜也指揮、読響は演奏に勢いがあり、進むにつれ、艶やかな凄味を表出。コロスに相当するモダン・ダンスも良かったです。
長木誠司さんの書かれた名解説に、古典的な教育しか受けていない歌い手ではおそらく2小節も歌えないだろう、というくだりがありました。それだけに飯田みち代さんを始めとするキャストの頑張りが称えられるわけですが、人声に無理をさせることを競うような現代オペラのあり方もどうなんだろう、という思いも頭をよぎりました。
最近のコンサートいくつか ― 2012年10月05日 10時27分15秒
いくつかよいものがありましたので、簡単にご紹介します。
《パルジファル》があまりに良かったので、読売日響の定期を聴きに行きました。9月25日(火)、オペラシティ。曲がベートーヴェンの第2番、第3番で、指揮がスクロヴァチェフスキー、ときたら、悪いはずないですよね。
スクロヴァチェフスキーの特徴として、よく、スコアの読みの深さが指摘されます。その通りなのですが、その読みが直線的なものではなく、何層にもわたる立体的かつ複合的なもので、それがオーケストラの響きにたえず還元されていることがよくわかりました。しかも、思いのほか柔軟。たえず新鮮で、爽やかな印象さえあるのです。こんなにいい《英雄》、ひさしぶり。
10月2日(火)は新国立劇場で、ブリテンの《ピーター・グライムズ》。精緻な20世紀オペラのすみずみまで行き届いた公演で、たいへん感心しました(オケは東フィル、指揮はリチャード・アームストロング)。ここでは顕著な印象を2点だけ述べておきます。1つは合唱のすばらしさ。むずかしいテクスチャーを英語で、これだけ堂に入って歌いきるのはたいしたものです。さすが、三澤洋史さん。もう1つは、この作品の人気の高さ。会場には知人があふれ、学会の方々にも大勢お会いしました。この渋い作品にこれだけ人が集まるということは、日本のオペラ文化の成熟を物語るものですね。
4日(木)は、「スーパー・コーラス・トーキョー特別公演」のご案内をいただき、オリンパスホール八王子に行ってみました。そうしたら、JR南口に接続して立派なホールができていて、向かいにビックカメラまであるのを見てびっくり。家から近く、便利でありがたいです。メインはマーラーの《嘆きの歌》、オケは都響、指揮はエリアフ・インバルでした。
この初期作品、演奏効果も高くファンにはたまらないのかもしれませんが、私には1つ、どうしても気になるところがあります。それは、森の花、眠る若者、不思議な笛といった童話の素材が、大編成の管弦楽と合唱、独唱によって、一貫して壮大に描かれていくことそれ自体です。後期ロマン派という時代に若い作曲家が高い意気込みで取り組むとこうなることはいくつかの類例が物語る通りですが、字幕で出るメルヒェンチックなテキストと音楽が、どうしても結びつきません。演奏する方も、所狭しとステージに並ぶと、相乗効果によって力演に傾きます。都響のマーラー・サウンドはさすがに華麗なものでしたが、上記の疑問はたえずつきまとったというのが、正直なところです。
《パルジファル》があまりに良かったので、読売日響の定期を聴きに行きました。9月25日(火)、オペラシティ。曲がベートーヴェンの第2番、第3番で、指揮がスクロヴァチェフスキー、ときたら、悪いはずないですよね。
スクロヴァチェフスキーの特徴として、よく、スコアの読みの深さが指摘されます。その通りなのですが、その読みが直線的なものではなく、何層にもわたる立体的かつ複合的なもので、それがオーケストラの響きにたえず還元されていることがよくわかりました。しかも、思いのほか柔軟。たえず新鮮で、爽やかな印象さえあるのです。こんなにいい《英雄》、ひさしぶり。
10月2日(火)は新国立劇場で、ブリテンの《ピーター・グライムズ》。精緻な20世紀オペラのすみずみまで行き届いた公演で、たいへん感心しました(オケは東フィル、指揮はリチャード・アームストロング)。ここでは顕著な印象を2点だけ述べておきます。1つは合唱のすばらしさ。むずかしいテクスチャーを英語で、これだけ堂に入って歌いきるのはたいしたものです。さすが、三澤洋史さん。もう1つは、この作品の人気の高さ。会場には知人があふれ、学会の方々にも大勢お会いしました。この渋い作品にこれだけ人が集まるということは、日本のオペラ文化の成熟を物語るものですね。
4日(木)は、「スーパー・コーラス・トーキョー特別公演」のご案内をいただき、オリンパスホール八王子に行ってみました。そうしたら、JR南口に接続して立派なホールができていて、向かいにビックカメラまであるのを見てびっくり。家から近く、便利でありがたいです。メインはマーラーの《嘆きの歌》、オケは都響、指揮はエリアフ・インバルでした。
この初期作品、演奏効果も高くファンにはたまらないのかもしれませんが、私には1つ、どうしても気になるところがあります。それは、森の花、眠る若者、不思議な笛といった童話の素材が、大編成の管弦楽と合唱、独唱によって、一貫して壮大に描かれていくことそれ自体です。後期ロマン派という時代に若い作曲家が高い意気込みで取り組むとこうなることはいくつかの類例が物語る通りですが、字幕で出るメルヒェンチックなテキストと音楽が、どうしても結びつきません。演奏する方も、所狭しとステージに並ぶと、相乗効果によって力演に傾きます。都響のマーラー・サウンドはさすがに華麗なものでしたが、上記の疑問はたえずつきまとったというのが、正直なところです。
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