夏の終わり2009年08月21日 22時44分46秒

惜しまれつつ亡くなった若杉弘さんは、とても付き合いやすい、魅力のある方でした。その若杉さんから伺ったお話で印象深いのは、あるときから夏休みをしっかり取るようにした、ということです。

日本人は休みもろくに取らずに働きますが、向こうの人は、長期間のバカンスを、遠慮なく取る。音楽家も同じで、音楽をまったく離れ、リゾートなどに出かけて、心ゆくまで遊ぶのだそうです。そうすると、夏が終わる頃には意欲が再燃し、音楽をやりたくてたまらなくなる。自分もそれに気づいたので、どんなにおいしい話があっても仕事を入れないのだ、というお話でした。

この話をありありと思い出したのは、明日からスケジュールがぎっしり詰まっていて、夏休みが事実上、今日で終わったからです。え、リフレッシュして意欲再燃か、ですって?

今年は外に一歩も出ず、部屋で片付けをするばかりでしたので、夏を楽しんだという感じがしません。いわゆるブルーマンデーと、同じような状態になっております。なにしろ最初の仕事が合唱コンクールで、なかなか気骨が折れるものですから・・・。

繰り返される報道2009年08月22日 23時30分51秒

覚醒剤の件、報道は繰り返しに入っていますが、それでも見てしまうのは、話題の主の華麗な容姿のゆえに違いありませんよね。美しい映像が、あとからあとから出てきます。「清純派」の話題は当室では未遂に終わりましたが、報道では完全にNS=清純派という等式になっており、清純派の概念も同時に、疑惑に包まれてしまいました。等式が本当に正しいかどうか、吟味も必要でしょうが。

私は美学の出身ですから、こんなとき、美とは何だろうと考えます。美は人の心に非現実的な期待を生み出し、思い込みによる虚像を拡大する。それは一面で、さまざまな悲劇や弊害を生み出します。女性は一般に、物心つき、恋をしながら美しくなってゆくものだと思うので、少女時代からきわだって美しいというのは、それなりの環境を前提とする、ということはないでしょうか。

いつも多大な気持ちの負担を伴いながら、進むにつれて充実感を覚えるのが、合唱コンクールです。たいへん疲れましたが、明日もう一日、がんばります。

お手上げの審査2009年08月23日 22時01分15秒

いやあ、今日はきつかったです。午前中に、中学混声の部14団体、小学校の部2団体を審査。午後は1時半から、一般の部22団体の審査になりました。

自由曲が8分プラス課題曲というルールなので、1団体が10分を超えます。1時間5団体弱ぐらいのペースで、途中10分の休憩をはさみ、6時過ぎまで、審査が行われました。この22団体に、順位をつけるのです。

アドバイス用コメントを書きながら順位を考えてゆくのは、結構な重労働。しかし玉石混淆であればまだいいのです。埼玉県というのは合唱団が多い上に一般のレベルが高く、実力伯仲の団体がたくさんある。上位に集中というのがいちばんやりにくい形ですから、正直に言いますと、あまりうまくない団体が出てくると、ほっと一息です。逆に、すばらしいハーモニーで歌い出されたりすると、さあ困った、と、頭を抱えてしまいます。

だんだん疲れて頭が働かなくなり、収拾がつかない状況で終了。困りました。コンクールではいつも困りますが、今回の困り方は深刻。もうこんな仕事は金輪際辞めよう、と決心しました(笑)。

1位の候補は、私見によれば前半のA、中程のB、後半のCの3つで、伯仲しているように感じれられました。終わった段階ではC、B、Aという順が心に浮かんだのですが、しばらく考え、A、B、Cの順に修正して提出。その理由は、時間差でたくさんの演奏を聴き、順位をつける場合には、どうしても新しい方が印象が強いので有利になる、という体験(客観的にも立証されている)から、「同等に感じた場合には前の方を上位にする」という原則を、自分なりに立てているからです。とはいえ、この原則を発動するか否かにも、微妙な判断を強いられます。

提出し、いや~な気持ちで、集計を待ちました。集計紙が配られてこわごわ見ると、右隣の審査員(二期会の重鎮S先生)の1位が、やはりAではないですか。思わず、全身の力が抜けるほど安堵しました(笑)。2位は左隣の審査員と同じ、3位の団体には、委員長が1位をつけています。全体としてみれば私の採点は異色なのですが、違うところも自分なりに説明できる違い方なので、まずまずこれで良かったと胸をなで下ろしつつ、講評に出かけました。

というわけで、審査、またやることになりそうです(笑)。辛かったですが、いい音楽をたくさん聴くことができました。ちなみに私の1位は、scatola di voceという合唱団です。

もぬけの殻2009年08月24日 23時57分37秒

10月にいずみホールで開かれる「ウィーン音楽祭 in Osaka」の記者発表のために、大阪へ。今日はシェーンベルク《月に憑かれたピエロ》を歌われる中嶋彰子さんが同席してくださいましたので、彼女を中心に話が進みました。そのコンサートで取り上げられる貴志康一(大阪出身の天才作曲家)についても中嶋さんがたくさん調べられており、そのテーマでも話がはずみました。

企画打ち合わせの前に一休みしようと、ホール近くのコーヒー店「にしむら」へ。ここのコーヒーはたいへんおいしく、モーニングも充実しています(「サラダセット」「フルーツセット」の2種がある)。私は大阪に宿泊すると、いつもここで朝食を取るのです。新聞も揃えられ、スペースもゆったりしていて、なかなかこれだけのお店はありません。

ところが・・・。お店が、跡形もなくなくなっていたのです。もぬけの殻。茫然として、しばらく立ち尽くしてしまいました。少し前に閉店したが、安いチェーン店に押されたのではないか、とのことでした。

私の通うお店はつぶれる、というのは、本ブログでもよく申し上げているジンクスです。でも、ある程度冗談のつもりだったんですよね。どうやら、冗談では済まなくなってきました。

今月のCD/DVD2009年08月27日 01時35分17秒

今月は全日更新を狙っていたのですが、ダメでした。今日はひじょうに急いでいる仕事があり、がんばっているうちに気がつくと、12時を回っていました。明日はいずみホールでギエルミの公演(オルガン)なので、更新できないかもしれません。

今月のCD/DVD選。大野和士さんがグラインドボーン音楽祭で上演したフンパーディンクの《ヘンゼルとグレーテル》(デッカのDVD)を1位にしました。お菓子の家が現代のコンビニとなる演出ですが、はつらつとして生気にあふれた舞台は、違和感を感じずに楽しめます。大野さんは子供のための啓蒙にも熱心な方ですが、そういう方ならではの熱気が感じられる、夢のある《ヘングレ》でした。

第2位には、先日ご案内したノリントンのハイドンの交響曲を入れました。厳密には先月分に当たりますが、どこかで一度取り上げておきたいと思い、今月分に押し込みました(輸入盤)。

3位は、岩城宏之さんがオーケストラ・アンサンブル金沢を指揮した遺産です(CD、ワーナー)。武満徹、メシアン、一柳慧、高橋悠治の作品が、まっすぐ切り込む真摯なスタイルで演奏されていて、岩城さんが現代音楽の分野で積み重ねた貢献はやっぱり大きなものだったんだなあ、となつかしみました。

絶品!ギエルミ氏2009年08月28日 23時51分05秒

いずみホールのバッハ・オルガン作品連続演奏会。第6回の出演者は、初のイタリア人、ロレンツォ・ギエルミ氏でした。トリオ・ソナタのCDが好きで世界最高峰、という印象を抱いていた私は、楽しみであった反面、不安でもありました。イタリア語でインタビューはできませんし、どの程度コミュニケーションを取れるか、心配していたのです。

お会いしたとたんに、心配解消。日本人ほどの背丈で、いかにも頭のよさそうなギエルミ氏は、オルガン技術者とはフランス語で、ホールのスタッフとは英語で、私とはドイツ語で流暢にお話になります。何の不安もない、バイリンガル。リハーサルは要領よく進められましたが、じつに明晰なスタイルで貫かれ、オルガンが、これまで聴いたこともないほど、すっきり響きます。線が生き生きと絡み合い、音色選びのセンスも最高。そのことを申し上げると、自分はオルガーノ・プレーノでわーっと響かせるのが好きではなく、つねに繊細な音作りを心掛けている、とのこと。さすがのコメントです。

休憩後のインタビューでステージにお呼びすると、意外や、小走りに出てこられました。愛嬌のあるお話をしばらくされた後、手を振りながら、小走りに退場。知性派なのに、軽いノリなんですよね(笑)。洗練された演奏は後半ますます透明度を高め、アンコールのスカルラッティのソナタは最高でした。

毎回こうした演奏が続きますので、このシリーズ、本当に多くのお客様に来ていただいています。ホ短調のプレリュードとフーガに《18のコラール》の抜粋をはさむ、という今回のプログラムはきわめて渋いものだと思いますが、客席が大きく盛り上がったのはたいへん嬉しいことでした。前売りの予約も最高を記録しました。ありがとうございます。

言われてみれば・・・2009年08月29日 21時40分01秒

目からうろこが落ちるといいますか、根本から認識の修正を迫るとてもいい本を最近読みましたので、ご紹介します。小林標著『ラテン語の世界~ローマが残した無限の遺産』という本で、中公新書の一冊、2006年初版です。

ラテン語を学ばれた方は、どなたも、むずかしい、複雑だ、という印象をお持ちではないでしょうか。私もそうで、合理化された近代語に比べると古典語はまことに複雑、じつにむずかしい、と思っていました。

ところが著者は、そうではない、というのですね。ラテン語というのは形式と意味がぴったり符合した言葉で、少しのあいまいさもなく論理的にできている、というのです。たしかに名詞の格や性、動詞の時制の数は多いが、それをいったん憶えてしまえば例外がほとんどなく(たとえば不規則変化の動詞がないので、辞書の巻末にも載っていない)、すべて明確に読める、というのです。

言われてみるとたしかにその通りで、それは気がつかなかったと、脱帽しました。ラテン語は、少ない言葉できちんとした意味を伝えられるということです。シーザーの”veni, vidi, vici.”(来た、見た、勝った)は文中でも引かれている有名な例ですが、「veni」を日本語にきちんと訳すなら、「私は来た」とせざるを得ません。ラテン語の簡潔さ、無駄のなさがきわだっています。そうか、ラテン語の聖書も薄いですもんね。

基礎をきちんと勉強することが大事だとわかり、またやってみようか、という気になってきました。蛇足ですが、CDの解説等に、ラテン語聖書の歌詞の対訳に新共同訳など新しい聖書訳をそのまま当てているものが多いのは、感心しません。ラテン語訳とヘブライ語/ギリシャ語原文は大きく相違していますので、やはりラテン語から直訳すべきだと思います。

(私が読んだ新書、2007年の第4版でした。読む人、多いんですね!)

人ごとですが2009年08月31日 23時56分55秒

選挙、台風。大嵐が同時に来たような昨日今日でした。私が選挙好きなのは、悲喜こもごもの報道を通じて、人間の生の姿を見ることができるように思うからです。当選と落選、このぐらい明暗がはっきりしているものはなく、候補者が全身で、その違いをあらわしています。

私にとってはまったく人ごとの世界ですが、過去にクラシック音楽の領域から政界に挑戦した人が、いないわけではありません。しかし、生きるも死ぬも他人の投票次第、という世界って、どうなんでしょう。思えばわれわれの世界も、最終的には他人の評価だということなのかもしれませんが、基本的には、自分の勉強をコツコツ積み重ねるやり方が可能です。自分の名前を書いてもらうために「お願いします」「助けてください」と叫ぶ行動は、とても縁遠く感じられるのです。

よく考えてみると、選挙というのは、大学にもあるわけですよね。私はほとんど興味がありませんが、興味をもつと、深入りしてしまうものなのかもしれません。それにしても、過去には予見できなかったことがどんどん起こりますね。歴史の流れに、感慨を憶える選挙ではありました。5年後、10年後は、いったいどうなっているのでしょうか。