大バリトンの自伝2009年10月05日 22時27分56秒

音楽家の伝記がいろいろ出ていますね。浅岡泰子さんの『評伝クルト・マズーア』(聖公会)もいいお仕事でしたが、今日はフィッシャー=ディースカウの『自伝フィッシャー=ディースカウ 追憶』(実吉晴夫・田中栄一・五十嵐蕗子訳、メタモル出版)を、興味深く読み終えました。

「影のようにおぼろげな」記憶に色彩を吹き込んだものだと冒頭にありますが、いやいや、その詳細なことに驚かされます。論じられる出来事や、作曲家、作品、演奏家の、なんと多岐にわたっていることか。膨大なレパートリーを培い、それぞれを心血を注いで演奏してきた声楽家のスケールの大きさから、強い印象を受けずにはいられません。

フルトヴェングラーへの私淑は並々ならぬものだったのですね。他の指揮者論、ピアニスト論は、体験をもとに綴られているだけに、とても面白いです。録音の裏話もありますよ。残念なのは、晩年の活動や心境を綴ったページがないこと。第一線を退いてからのことを読みたい気持ちにかられますが、終章がないのが、自伝というものかもしれません。

大きな本なので翻訳者のご苦労は大きかったと思います。感謝を捧げますが、訳をもう少し洗練できるのではないか、とも感じました。文意の方向が定まらないところが散見されますし、カール・リヒターの出てくるところ、《マタイ受難曲》の「4曲のバス・アリア」というのが「4人のバスのためのアリア」と訳されて原語まで付されているのには、首をひねりました。

もうひとつ驚いたのは、彼がワーグナーを、たくさん歌っていたことです。かつて《パルジファル》の演奏比較をしたときに彼のアムフォルタスに違和感を覚え、舞台経験が足りないのではないか、と推測したのですが、それは間違っていたようです。今度出す本にも入っていますので、訂正させてください。