バッハ理解と信仰(結論) ― 2009年10月28日 23時55分29秒
バッハ理解と信仰の関係の問題、そろそろ結論に近づきたいと思います。
バッハを深く理解するためには信仰が必要だ、とおっしゃる方にはときどき出会いますが、その言葉を私は必然的に、ほかならぬ自分に向けられたものと理解します。すなわち、「礒山もなかなかよくバッハについて勉強しているが、信仰を持っていないので、本質的な理解には達していない。自分は礒山ほどバッハに詳しくないが、信仰があるので、バッハに対してはより深い理解をもっている」と言われている、と理解するのです。
若い頃はそうした意見に譲る気持ちもありましたが、ずいぶん前からそう思わなくなりました。ひとつの理由は、私の読者に、クリスチャンの方が相当数おられることです。美学会のおりにも、ある伝統ある大学の方から、「うちのシスターが先生の『マタイ受難曲』に感動している」という理由で、出講の依頼を受けました。ありがたくお受けしましたが、非信徒のバッハ論をこのように読んでくださる方もいらっしゃるわけです。
ただ、理解のあり方が違う、感動の場所が違う、ということはあるでしょう。こういうテキストはわれわれにはぴんと来ないが、信徒の方は熱烈に受け止めるだろう、と思うことはよくあります。しかし、信仰がなくても同じように深く受け止められるテキストもたくさんありますし、かえって素直に受け容れられるテキストも、あると思う。その場合、信仰を前提とするメッセージの方が信仰を前提としないメッセージより重要であるとは、現代に生きる私には思われません。
以前の談話で、信仰と宗教性を分けたと思います。両者は重なる部分もありますが、あえて分けるとすれば、前者は何らかの共同体に所属している、洗礼を受けている、教会に通っているというような帰属性をあらわし、後者は宗教の問題への鋭敏な感性や、個的人間を超えるものへ広い志をあらわすとして区別できるのではないかと、私は考えます。
キリスト教徒ではないがバッハに心からの感動を覚えるという人は、後者の意味での、宗教的な心映えをもった人なのではないでしょうか。そういう人がいま世界で、大勢バッハを聴いているのだと思う。バッハ自身の中にも、こうした開かれた宗教性が豊富に存在していたと、私は考えています。
さて、聴く側はそれでいいが、演奏者の場合はどうだろう、というのが、Tenor1966さんの問題提起でしたね。これも同じことだと、私は思うのです。私は演奏家ではありませんが、バッハをどう演奏すべきかということに関しては自分のはっきりした考えを抱くにいたっており、信仰の所産を前にしてどう演奏すべきか考え込む、ということはありません。もし職業的な訓練を受けていれば、応分の演奏はできると思います。要するに、宗教的感性に恵まれた人が作品への十分な考察のもとに演奏するのであれば、信仰をもたずとも感動的な演奏ができると、私は確信します。また、そうした演奏がもっともっと増えてほしいと思っているのです。
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