バッハの長調、短調2010年01月28日 23時14分24秒

このところ超多忙なのですが、心に充実を感じて、がんばっています。今日は、土曜日に松本で講演する《ブランデンブルク協奏曲》について、調べていました。

この曲集の大きな特徴は、6曲がいずれも長調であることです。6曲セットはバッハの定番ですが、全部長調という例は、他にない。長調対短調の統計を取ってみると、次のようになります。

《イギリス組曲》は、2:4。《フランス組曲》は、3:3。《パルティータ》も、3:3。無伴奏ヴァイオリンは、2:4。無伴奏チェロは、4:2。ヴァイオリンとチェンバロのソナタは、3:3。《平均律》は、もちろん同数です。

なぜこの曲集だけ、「6:0」という極端な形になっているのか。《ブランデンブルク協奏曲》が君主(この場合、ブランデンブルク辺境伯)への表敬を目的とし、曲ごとに異なったプログラムをもっているのではないか、と考える研究はいくつかありますが、輝ける君主のイメージを長調であらわそうとした、という見方には、たしかに説得力があります。

別の角度からしますと、バッハの場合、短調は伝統的な価値観に結びつき、長調は未来志向的な価値観に結びつく、ということはないでしょうか。対位法に特化した《フーガの技法》や《音楽の捧げもの》はどちらも短調です。一方、《ゴルトベルク変奏曲》は長調。《イタリア協奏曲》もそうですね。このあたり、少し深めてみたいと思います。

《フーガの技法》の幸福(2)2010年01月16日 23時08分12秒

こういう打ち合わせにない発展が起こってしまうから、ステージのインタビューはこわいのです。まあなんとかなったのは、作品についての予備知識のたまもの。トークは、後半にもありました。こちらは、アシスタント兼〈鏡像フーガ〉演奏のフィニーさんに対してでしたが、フィニーさんがドイツ語に堪能でしたので、余裕をもってこなすことができました。フィニーさんには、アシスタントの役割や、師であるクリスティさんのお人柄などについてお尋ねし、テーマのピックアップ演奏などもしていただきました。

2つのインタビューのあとは客席に座り、クリスティ流配列による《フーガの技法》の完全全曲演奏を楽しみました。皆さんに告白しなくてはなりませんが、私は、《フーガの技法》が本当にすばらしい作品だと、この夜初めて思いました。こう書くと、なんだ礒山はバッハの専門家と称していて、《フーガの技法》についても書いているのに、と思われることでしょう。しかし事実として、私は《フーガの技法》が音楽としてよく理解できず、なかなか好きになれなかったのです。

しかしこの夜は、フーガの構造が、転回や拡大縮小のような技巧に至るまで手に取るようにわかり、「音による幾何学」が血の通った音楽として、眼前に展開するような思いにとらわれました。それはクリスティさんがポリフォニー声部のくっきりした弾き分けを重視し、鍵盤やストップの選択を通じて、構造を徹底して追求していたからです。このため、バッハが神の世界創造を模倣して繰り広げる壮大な秩序の世界が、生きた音響として、耳に響いてきました。《フーガの技法》を聴いて初めて、私は幸福になることができたのです。大きな体験です。

クリスティさんの演奏は、情熱と雄大さを兼ね備えたものでした。厳格な構成の作品だけにさぞ神経を使うだろうと思うのですが、演奏は曲ごとに盛り上がり、〈未完の四重フーガ〉は中でも圧巻。一般に演奏される初稿は、自筆譜の終わり7小節を省いています。じつはここで第1の主題が豪快にあらわれ、3つの主題が同時結合されたところで、バッハの筆が絶えている。クリスティさんはここも省かずに演奏され、一呼吸置いて、遺作のコラール〈あなたの御座の前にいま私は進む〉に入りました。この組み合わせはC.P.E.バッハによる初版の工夫であるわけですが、それがどれほどドラマティックな感動を呼び起こすかも、今回、初めて経験したことです。

終了後、すばらしいお人柄のクリスティさん、フィニーさんと、京橋の焼き鳥屋で祝杯。今回は英語のインタビューも含まれていて、私としてもプレッシャーが大きかったのですが、そういう責任の重い仕事に精一杯取り組み、それを通じて貴重な勉強をさせていただくことにこそ、人生の幸福はあるということがわかりました。ありがたいことです。

ピアノ部門、2年目終了!2009年11月26日 11時27分32秒

11月24日の火曜日、私の主宰する国立音楽大学音楽研究所バッハ演奏研究プロジェクト、ピアノ部門の発表コンサートがありました。ご来場くださった方々、ご出演の方々、ご協力をいただいた方々、ありがとうございました。

受講生の発表と指導教員の演奏をドッキングするのが、去年からのポリシー。前半には、今年勉強してきた《パルティータ》第2番と第6番が、選抜された各3人の受講生によって演奏されました。皆さん、オーディションの時より格段に勉強が進んでおり、やはりステージがあることは大事だと実感。安曽麻里江さん→安曽絢香さん→五味ひとみさんのリレーで演奏された第6番の出来映えはすばらしいものでした。勉強を通じて演奏がどんどん変わられたという話で、1年間続けてきた意味を感じることができました。

後半は、加藤一郎、渡邊順生両先生の2台チェンバロによる《フーガの技法》2曲をはさんで、近藤伸子先生の《イギリス組曲第5番》と、渡邊順生先生による《パルティータ第4番》の、ピアノとチェンバロによる競演。おかげさまで、ぜいたくなコンサートにさせていただきました。

ピアノ部門はこれで終了ですが、12月1日に補遺で、加藤一郎先生によるテンポ論の講義があります。どなたでも聞いていただけます。8日は声楽部門の発表です。カンタータ第64番、モテット《イエスよ、私の喜び》、カンタータ第140番を大塚直哉さんの指揮で演奏します。声楽陣の充実はかなりだと思うので、ぜひお出かけください。

バッハ理解と信仰(結論)2009年10月28日 23時55分29秒

バッハ理解と信仰の関係の問題、そろそろ結論に近づきたいと思います。

バッハを深く理解するためには信仰が必要だ、とおっしゃる方にはときどき出会いますが、その言葉を私は必然的に、ほかならぬ自分に向けられたものと理解します。すなわち、「礒山もなかなかよくバッハについて勉強しているが、信仰を持っていないので、本質的な理解には達していない。自分は礒山ほどバッハに詳しくないが、信仰があるので、バッハに対してはより深い理解をもっている」と言われている、と理解するのです。

若い頃はそうした意見に譲る気持ちもありましたが、ずいぶん前からそう思わなくなりました。ひとつの理由は、私の読者に、クリスチャンの方が相当数おられることです。美学会のおりにも、ある伝統ある大学の方から、「うちのシスターが先生の『マタイ受難曲』に感動している」という理由で、出講の依頼を受けました。ありがたくお受けしましたが、非信徒のバッハ論をこのように読んでくださる方もいらっしゃるわけです。

ただ、理解のあり方が違う、感動の場所が違う、ということはあるでしょう。こういうテキストはわれわれにはぴんと来ないが、信徒の方は熱烈に受け止めるだろう、と思うことはよくあります。しかし、信仰がなくても同じように深く受け止められるテキストもたくさんありますし、かえって素直に受け容れられるテキストも、あると思う。その場合、信仰を前提とするメッセージの方が信仰を前提としないメッセージより重要であるとは、現代に生きる私には思われません。

以前の談話で、信仰と宗教性を分けたと思います。両者は重なる部分もありますが、あえて分けるとすれば、前者は何らかの共同体に所属している、洗礼を受けている、教会に通っているというような帰属性をあらわし、後者は宗教の問題への鋭敏な感性や、個的人間を超えるものへ広い志をあらわすとして区別できるのではないかと、私は考えます。

キリスト教徒ではないがバッハに心からの感動を覚えるという人は、後者の意味での、宗教的な心映えをもった人なのではないでしょうか。そういう人がいま世界で、大勢バッハを聴いているのだと思う。バッハ自身の中にも、こうした開かれた宗教性が豊富に存在していたと、私は考えています。

さて、聴く側はそれでいいが、演奏者の場合はどうだろう、というのが、Tenor1966さんの問題提起でしたね。これも同じことだと、私は思うのです。私は演奏家ではありませんが、バッハをどう演奏すべきかということに関しては自分のはっきりした考えを抱くにいたっており、信仰の所産を前にしてどう演奏すべきか考え込む、ということはありません。もし職業的な訓練を受けていれば、応分の演奏はできると思います。要するに、宗教的感性に恵まれた人が作品への十分な考察のもとに演奏するのであれば、信仰をもたずとも感動的な演奏ができると、私は確信します。また、そうした演奏がもっともっと増えてほしいと思っているのです。

テーマは適切か2009年10月19日 23時38分12秒

いま「バッハの音楽を理解するために信仰が必要か」というテーマで少しずつ議論していますが、このテーマの立て方が適切であるかどうか、疑問に思い始めました。そこで鈴木雅明さんの『わが魂の安息、おおバッハよ!』を見直したところ、次のような文章を発見しました。

「これら演奏上の技術研究や音楽学的な研究を進める際にも、個々のカンタータのもつ最も根本的なキリスト教のメッセージについての理解なくしては、実際の演奏において成果を挙げることができないのもまた事実である」(29-30ページ)。

私は、非キリスト教徒のバッハ研究者として、この鈴木さんの言葉に、完全に同意します。私はバッハの作品に含まれる「根本的なキリスト教のメッセージ」をたえず研究の中心に据えてきましたし、そうしたメッセージが把握され発信されていることが、演奏においてきわめて重要なことであると認識しています。

しかし私は、キリスト教の信仰をもっていません。「信仰」がないと、メッセージは理解できないのでしょうか。そもそも「信仰」って、何なのでしょうか。この定義をしっかりさせないと、話が先に進まないように思います。

戦記物の切り口から2009年10月18日 23時51分17秒

お待たせしました。「戦記物を感動して読んでいる人に、戦争の悲惨さは行った者にしかわからないよ、と言うことは正当でしょうか」という設問についてです。

「戦争の悲惨さは行った者にしかわからない」という命題が正しいことは、どの方も認められると思います。「感動して読む」ということは、事実上、そのことをかみしめながら読んでいるのだと思う。ちなみに「戦記物」という言葉は、太平洋戦争の体験記のようなものも含めて使いました。適切でなかったらお詫びします。

戦争体験の悲惨さは圧倒的ですから、体験された方がそう思うのは、ある意味で当然です。しかし、わからないことを承知で、伝えようと努力している方々もいらっしゃる。そして、ある程度は、必ず伝わるのだと思うのです。まさにTenor1966さんがおっしゃるように、人間の想像力が、大きな役割を果たします。人間の想像力は尊いもので、現実を超え、真理に肉薄する可能性をもっている。芸術において、その力は最大限に発揮されます。

したがって、「戦記物を感動して読んでいる人に、戦争の悲惨さは行った者にしかわからないよと言うこと」は、正当ではないというと強すぎるかもしれませんが、言わない方がいいこと、言って欲しくないことのうちに入ると思います。信仰のない人にバッハはわからない、とどなたかがおっしゃるとしたら、それも同じことではないでしょうか。そうした発想にはいわゆる「上から目線」が含まれているように、どうしても思えてしまいます。

懐疑の効用2009年10月13日 17時26分09秒

新興宗教の教祖の本に対して、「信徒でなくては本当には理解できない」という命題が成立するでしょうか。--これについて考えてみましょう。

心酔者から勧められ、読んでみると荒唐無稽、というケースが、ある程度あるように思います。たとえば、何年に世界が滅びる、たいへんだ、というような場合。この場合は、距離をおいて冷静に見た方が、正しい判断ができると思います。

そもそも平素大学で、文献は批判的に読め、と教えているのです。本に書いてあるから頭から本当だと思うのではなく(活字の権威で、そう思ってしまう人は少なくありません)、著者はそう言っているが本当にそうかどうか吟味する癖をつけなさい、と教えます。すなわち懐疑を育てているわけですが、その目的は、本当に正しいもの、すばらしいものとそうでないものを、しっかり見分けられるようになるためなのです。疑わず信じなさい、ということは、世の中のたいていのことに関しては、誤った教えとなります。

したがって、「信徒でなくては本当には理解できない」という命題は、不適切に使われる場合がほとんどだと思います。わずかな残り分に正当な場合がありうるかどうか、バッハがそこに含まれるか否か、が、残された問題です。

バッハ理解と信仰2009年10月12日 22時49分22秒

さびれた別館http://groups.google.co.jp/group/alt-prof-iの様子が気になって久々にアクセスしてみましたところ、バッハの音楽を理解するために信仰が必要かという古典的なテーマに関する発題をいただいていたことがわかりました。メンバーの方々、引いちゃっているんでしょうかね。

今日、服部幸三先生の告別式に伺いましたが、先生の信仰が並々ならぬものであったことを知り、強い印象を受けました。聖書を読み、讃美歌に親しむ晩年であったとのことです。芸大生によってバッハのカンタータの一節も演奏されましたが、こういう雰囲気の中ですと、バッハを理解するために信仰が必要か、という問いは、新たな迫力をもって迫ってきます(じつは式場でそのことを考えていました)。少なくとも、信徒の方々に独自の理解様式があることは確かだと思います。

この問題を徐々に再考してみたいと思いますが、その前提として、応用問題を先に出したいと思います。次のように尋ねられたら、皆さんは、どう思われるでしょうか。

1.新興宗教の教祖の本に対して、「信徒でなくては本当には理解できない」という命題が成立するでしょうか。

2.キリスト教徒であればバッハ理解への切符をおしなべて手に入れることができるのでしょうか。それとも、カトリックよりはプロテスタントが、カルヴァン派よりはルター派が、より高い理解資格をもつのでしょうか。

3.戦記物を感動して読んでいる人に、戦争の悲惨さは行った者にしかわからないよ、と言うことは正当でしょうか。

身体運動2009年07月13日 16時27分57秒

私は、身体を動かすことが苦手です(きっぱり)。これは、バッハ研究者としては具合が悪い。なぜならバッハにはたくさんの舞曲があり、舞曲とは銘打たれていない作品にも、身体運動としての踊りの感覚が充ち満ちているからです。

したがってバロック舞曲の研究が必要、という正当な認識のもとに、バッハ研究所の器楽・声楽合同で、「古典舞踊とバロック舞曲」という講演会を開きました(7月7日)。講師はガンバ奏者の平尾雅子さんで、ドイツ帰りの村上暁実さんが様式感にすぐれたチェンバロを演奏され、本職はチェンバリストだという小川絢子さんが、この世のものとも思われぬ軽やかな踊りを披露してくださいました。

舞曲ごとに、ルネサンス、バロック、バッハの譜例が準備され、それぞれの舞曲の特徴と変遷が、平尾さんの実演も交えて進められていきます。舞踊を踏まえることの大切さを再認識すると同時に、器楽的様式化の方位を尊重することも必要であることを教えていただきました。

バッハの組曲には、これがなんでサラバンド?といったようなケースが、後期に行くほどしばしば出てきます。隠れたサラバンドの特徴を探し当てることが肝要と考えて普段はそうしていますが、組曲の当該部分でバッハがあえてサラバンドから離れ、ファンタジーにあふれた緩徐楽章を展開していると見るべき部分もあるように思えてきました。

最後、平尾さんと小川さんの踊るメヌエットを見ながら私の脳裏に浮かんだのは、高校生のときのフォークダンスです。「あと4人で彼女」「さああと3人」というカウントダウン状況下で、気も転倒しているシチュエーション。しかも身体を動かすことが苦手ですから、うまくいくわけがありません。苦笑する彼女から「右!」「左!」と指図された屈辱の思い出が湧き上がり、踊れる人はいいなあ、とうらやましく思いました。

終了後、いつもながら優雅な平尾さんに「え~、これからどうされますか?」と恐る恐る訪ねました。すると、「私、すっごくお腹空いちゃったの!」とお答えになる、いいお人柄。いつもの「ガスト」に繰り出し、慰労の夕食を採りました。皆さんが威勢良くデザートをお頼みになるので、私も便乗しようと思い、「クリームあんみつ」と注文したところ、平尾さん以下の女性たちが爆笑。どうも踊りがからむと、笑われることが多いようです。

コメント交流2009年05月13日 23時08分26秒

当ブログを訪れてくださる皆さんは、コメントまでお読みになられますか。いいコメントがたくさんありますので、ぜひ読んでいってください。まあ時節柄、趣意居人さん、常笑居人さんといった傾向の方もおられるわけですが・・・(汗)。

今日は2つ、うれしい書き込みがありましたので、こちらで対応させていただきます。私は近過去に「室内楽作品研究」、「弦楽器作品研究」という授業をやりましたが、科目が開講された最初の年のみ担当し、あとは別の方に譲っていました。しかし前者の授業に出て演奏もされた方が、今はハンブルクでキリスト教のことを考えつつフルートを学んでおられることを知り、また授業を担当したいなあなんて思っています。「オレンジ窓と青メガネ」というコンテンツの超豊富なブログとリンクしてくださるとのこと、よろしくお願いします。ぜひ、トラヴェルソが上手になってお帰りくださいね。

もうお一人、カンタータのファンであるBorsさん。「身体がふるえる」という感動の仕方や、その対象が「罪のしもべ」を歌う第55番であることなどに、私と近いメンタリティを感じます。

そのBorsさんから、私の好きなカンタータを2、3曲教えて欲しい、というリクエストをいただきました。好きな曲はたくさんありますが、この曲が究極の作品だ、と思うのは、教会カンタータでは第140番、世俗カンタータでは、選帝侯妃追悼の第198番です。第140番は、冒頭の付点リズムが静かに響き出すといつも、総毛立つような思いにとらわれます。今年はこの曲をくにたちiBACHコレギウムで採り上げるので、楽しみです。