戦記物の切り口から2009年10月18日 23時51分17秒

お待たせしました。「戦記物を感動して読んでいる人に、戦争の悲惨さは行った者にしかわからないよ、と言うことは正当でしょうか」という設問についてです。

「戦争の悲惨さは行った者にしかわからない」という命題が正しいことは、どの方も認められると思います。「感動して読む」ということは、事実上、そのことをかみしめながら読んでいるのだと思う。ちなみに「戦記物」という言葉は、太平洋戦争の体験記のようなものも含めて使いました。適切でなかったらお詫びします。

戦争体験の悲惨さは圧倒的ですから、体験された方がそう思うのは、ある意味で当然です。しかし、わからないことを承知で、伝えようと努力している方々もいらっしゃる。そして、ある程度は、必ず伝わるのだと思うのです。まさにTenor1966さんがおっしゃるように、人間の想像力が、大きな役割を果たします。人間の想像力は尊いもので、現実を超え、真理に肉薄する可能性をもっている。芸術において、その力は最大限に発揮されます。

したがって、「戦記物を感動して読んでいる人に、戦争の悲惨さは行った者にしかわからないよと言うこと」は、正当ではないというと強すぎるかもしれませんが、言わない方がいいこと、言って欲しくないことのうちに入ると思います。信仰のない人にバッハはわからない、とどなたかがおっしゃるとしたら、それも同じことではないでしょうか。そうした発想にはいわゆる「上から目線」が含まれているように、どうしても思えてしまいます。

コメント

_ Clara[ ― 2009年10月19日 17時46分05秒

私が「戦記物」という場合は、大河ドラマに出てくるような戦国時代の話とか、せいぜい日露戦争くらいまでの、英雄伝説や手柄話などを言い、まだ沢山体験者が生存している太平洋戦争の体験記は含めません。
自分も、終戦の年に国民学校最後の1年生だったり、父親が戦地に行ったりのことがあるので、それらの体験記を「戦記物」というには、生々しすぎて躊躇いがあります。

でも、体験者でなければ分からないという言葉は、一面事実でしょうが、そうは言わない方がいいと思っています。
体験者は、自分が生きているうちに、あとの人に伝える努力をしなければいけないと思いますし、自分の狭い小さな体験が、普遍的な意味を持つためには、それなりの表現力が必要でしょう。
でも、特に銃後の守りを担っていた女性や、当時子どもだった私たちは、自分の体験を語ることは出来ても、それを言語化したり、抽象的な論理で、訴えることは、苦手な場合も多いのです。
代わりに、大岡昇平とか、野間宏とか、すでに物故した文学者達の、すぐれた作品や、名もない人たちの体験記をによって、自分の体験の及ばないことを想像し、追体験することで、戦争の悲惨さ、悲しさ、空しさは、伝わるのではないでしょうか。
そう信じ、願っている1人です。

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