バッハ理解と信仰 ― 2009年10月12日 22時49分22秒
さびれた別館http://groups.google.co.jp/group/alt-prof-iの様子が気になって久々にアクセスしてみましたところ、バッハの音楽を理解するために信仰が必要かという古典的なテーマに関する発題をいただいていたことがわかりました。メンバーの方々、引いちゃっているんでしょうかね。
今日、服部幸三先生の告別式に伺いましたが、先生の信仰が並々ならぬものであったことを知り、強い印象を受けました。聖書を読み、讃美歌に親しむ晩年であったとのことです。芸大生によってバッハのカンタータの一節も演奏されましたが、こういう雰囲気の中ですと、バッハを理解するために信仰が必要か、という問いは、新たな迫力をもって迫ってきます(じつは式場でそのことを考えていました)。少なくとも、信徒の方々に独自の理解様式があることは確かだと思います。
この問題を徐々に再考してみたいと思いますが、その前提として、応用問題を先に出したいと思います。次のように尋ねられたら、皆さんは、どう思われるでしょうか。
1.新興宗教の教祖の本に対して、「信徒でなくては本当には理解できない」という命題が成立するでしょうか。
2.キリスト教徒であればバッハ理解への切符をおしなべて手に入れることができるのでしょうか。それとも、カトリックよりはプロテスタントが、カルヴァン派よりはルター派が、より高い理解資格をもつのでしょうか。
3.戦記物を感動して読んでいる人に、戦争の悲惨さは行った者にしかわからないよ、と言うことは正当でしょうか。
コメント
_ Tenor1966 ― 2009年10月13日 12時40分02秒
_ ゆっくり考える者 ― 2009年10月14日 02時05分12秒
3.戦記物と戦争体験者
すでに語り終えてしまった戦記物に対して個人の体験を基に後から出される意見は後だしじゃんけんのようなもので、後の方が勝ちにように見えますが、そんなことはないとおもいます。
体験者の意見はたしかに本人個人の知的財産として尊重されるべきものですが、その内容と質はさまざまであり、一面的真実でしかないことがままあります。たとえば人間の戦争の歴史にも触れる歴史理解、戦争をする人間存在の罪深さなどにも目が向いているものであるかなど、問題があると思います。他方、戦記物はすでに言語表現をされているゆえに言語をもとに歴史的正確さ等を評価することはできますが、その表現が文学として哲学としてもーつまり人間存在の奥に迫るものであるかどうかでも評価されるべきです。言葉を換えますと、意見も著述も、最初から公衆に向かった言語表現であることを自覚すべきものです。第三者はそれらの観点から評価すべきです。
1.新興宗教の教祖の著書と信仰
新興という点がひっかけ問題のように見えますので、宗教の教義と信仰という観点から考えてみます。初めから信仰がある人ならば、たしかにその教義に正面からぶつかってゆこうと考えることが多い。その限りで、えるものはあります。別言すれば個人として信仰のない者より理解でき、信仰を進めることができます。しかしまた一方で信徒は個人であるので、間違った理解もあるのです。他方宗教は人間の考え出した産物であるので、特殊性と一般性の両面があります。特殊性はその宗教がどんな文化、歴史、社会のもとに生み出されたのかという問題であり、一般性は宗教が普遍性を持っているかという問題です。教義も同じことが言えると思います。もし信仰の全くない人が、その教義を理解しようと意欲するならば、その宗教の両面の背景をまず理解し、それと合わせて人間への理解を獲得するならば、宗教、ひいては教義への理解にせまることができます。だが最終的には理解と信仰は別物です。信仰できない場合は、宗教に対し縁なき衆生となります。しかしそれで終わりかと言えば、終わりではありません。宗教あるいは教義が人間の営みである以上、日々個として深く見つめ、かつ他者との交わりにおいて自分の理解を正すことができるならば、理解したり、評価することができ、ある程度信仰も得ることができると思います。しかし最初からの信仰者にも同じく言えます、つまり教義への信仰の程度もその人の努力次第だということです。
最後に2番です。バッハ理解はだれが一番かという問題ですね。バッハは宗教的には改革派であるゆえに、たしかに改革派を理解する人が彼の宗教性を理解するのに早いといえます。しかし早いだけが一番ではありません、深くもある必要があります。翻って考えると、彼の宗教性は音楽性と深い関係をもつゆえに、音楽という芸術面の理解もなければ彼を理解したことにはならないと思います。彼の音楽表現が宗教を素地にしているからと言って宗教理解があればバッハを理解できるとはならないことは誰でも理解できます。1番での私の見解を繰り返すことになりますが、宗教の特殊と一般性への理解と信仰を深めて、つまり人智を集め尽くすならば、バッハへの理解と敬愛が増すと思います。
_ REIKO ― 2009年10月14日 18時56分06秒
この「理解」、とりわけバッハと共に使われることが多い気がします。
例えば、同じクラシックでも「モーツァルトの音楽を真に理解するためには・・・」って、あまり目にしません。
まして、ポピュラー音楽にはほとんど使わないでしょう。
何故バッハに関してだけ「理解」「理解」と言うのか??
こちらの方が、よほど「問題」だと思いますね~!
私は音楽は「楽しむもの」だと思ってるので、(もちろんこの「楽しむ」には色々な意味を含みますが)、「理解!理解!」とこだわる人には、「音楽を理解したいなら、勉強でも信仰でも、ご自由にどうぞ。私はその間、楽しんでいます」と言うしか術はないです。
★自分は子供の時から、聖書も賛美歌も好きで親しんできましたが、クリスチャンではありません。
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誤変換、大変失礼しました)
応用問題に回答してみます。
1.新興宗教の教祖の本
・これは、その宗教が選民思想に基づいたものである場合には
「信徒でなくては本当には理解できない」という命題が成立する
可能性が高いように思います。
例えば「関西弁教」という新興宗教の教祖が(笑)、関西弁で
話す者のみが救われるという教義を書いた本を出版したとしたら、
信徒(関西弁で話す人)にしか本当に理解できない様な気がします。
しかし、全ての民を救う宗教である場合には、全ての民に普遍的な
内容だと思うため、信徒でなくとも理解できるように思います。
2.バッハ理解の資格
・これは微妙な命題ですが、二つのうちどちらかと考えた場合
には前者の、キリスト教徒であればバッハ理解への切符を
おしなべて手に入れることができるように思います。
バッハはルター派プロテスタントを(信仰)生活の土台として
いましたが、教派は違ってもキリストは一つであるように、彼
(の音楽)は教派の壁を越えて存在していると思うためです。
3.戦記物と実体験
・戦争を知らない私にとってはこれは難しい問題ですが、戦争の
悲惨さは行った者にしかわからないよ、と言うことは正当では
ないように思います。
戦争に行った人の経験は、その人個人の独自・個別の経験ですが、
戦記物から伝わるのはそれを読んだ人の人生経験などに根ざした
想像力に基づいたもので、人間にとって普遍的な感覚であると
思うためです。
そこには浅はかな理解や誤解も生じることもあるとは思いますが、
人の持つ想像力は、普遍性を獲得できるということを信じたいと
思っています。