テーマは適切か2009年10月19日 23時38分12秒

いま「バッハの音楽を理解するために信仰が必要か」というテーマで少しずつ議論していますが、このテーマの立て方が適切であるかどうか、疑問に思い始めました。そこで鈴木雅明さんの『わが魂の安息、おおバッハよ!』を見直したところ、次のような文章を発見しました。

「これら演奏上の技術研究や音楽学的な研究を進める際にも、個々のカンタータのもつ最も根本的なキリスト教のメッセージについての理解なくしては、実際の演奏において成果を挙げることができないのもまた事実である」(29-30ページ)。

私は、非キリスト教徒のバッハ研究者として、この鈴木さんの言葉に、完全に同意します。私はバッハの作品に含まれる「根本的なキリスト教のメッセージ」をたえず研究の中心に据えてきましたし、そうしたメッセージが把握され発信されていることが、演奏においてきわめて重要なことであると認識しています。

しかし私は、キリスト教の信仰をもっていません。「信仰」がないと、メッセージは理解できないのでしょうか。そもそも「信仰」って、何なのでしょうか。この定義をしっかりさせないと、話が先に進まないように思います。

コメント

_ 隠居老人 ― 2009年10月20日 10時52分11秒

私も大多数の日本人と同じく信仰を持っていません。
そのことで日常生活や死に対して何等不安を持っても居ません。
信仰とは理解することではなく、将に信ずることなので、付き合いきれません。
また、芸術作品に対して真の「理解」とは何なのでしょうか?
これは音楽だけではありません。
宗教絵画や仏像などの宗教彫刻に関しても同じことでしょう。
仏教など全く信じていない私でも、優れた仏像などに対面すると、
感動のあまり涙を流したことも幾度もあります。
これが信者の感動と違うものかどうかなどということはどうでも良いのです。
ただ、問題なのは多くの人々に感動を与える製作者である仏師は
信者であることが必須条件かという問題は残ります。
曇り空の一角の雲の切れ間から一筋の陽光が降り注ぐ光景などは
山に登っている時などによく見かけますが、そんな時は直感的に
宗教絵画の一場面を想起し、敬虔な思いに包まれます。
宗教音楽も信仰を持たない私たちも感動で涙することは多いと思いますが、
これが信者の感動とどう違うのかという問題があります。
信仰が理解でないように、感動も理解を超えたものではないでしょうか?
宗教芸術もある水準を越えると、理解を超えて直接心に訴えかける
何物かを持っているように思えてなりません。

_ I教授 ― 2009年10月20日 16時37分04秒

隠居老人さん、すばらしいコメントをありがとうございました。私は、感動は本当の意味での理解を含むもので、理解の最高の形態かもしれない、と思っています。また論じたいと思いますが、取り急ぎ。

_ Tenor1966 ― 2009年10月20日 20時25分09秒

『わが魂の安息、おおバッハよ!』を読むことはまだできていないの
ですが、引用箇所における「演奏」という言葉の意味が、礒山先生の
それと異なるような印象を受けています。

引用内のものは演奏者のそれ(「演奏する」ということ)で、記事内の
ものは聴衆のそれ(「演奏されたもの」ということ)という意味合いが
強いように感じました。

聴衆が「根本的なキリスト教のメッセージ」を客観的・無意識的に
のみとらえていたとしても、演奏されたものを鑑賞する上ではなんら
支障はないように感じます。

一方演奏者は、楽曲に表れている「根本的なキリスト教のメッセージ」
を作曲者、またはその楽曲が表しているものに代わって表現する必要が
(殊、テキストを扱う歌い手には)あり、そのメッセージを客観的・
無意識的と同時に主観的・意識的にとらえる必要があるように、体験
的に感じています。

「『信仰』がないと、メッセージは理解できないのでしょうか」と
いう命題について考えるとき、作品と鑑賞の間に「演奏」が入ると
いう音楽の特徴上、鑑賞者と演奏者では、その命題の意味合いや
重みが異なるように思います。

テーマの適切性については、この立場の違いを踏まえる必要がある
ように考えます。(それらの間に優劣は無いと思いますが)

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