懐疑の効用2009年10月13日 17時26分09秒

新興宗教の教祖の本に対して、「信徒でなくては本当には理解できない」という命題が成立するでしょうか。--これについて考えてみましょう。

心酔者から勧められ、読んでみると荒唐無稽、というケースが、ある程度あるように思います。たとえば、何年に世界が滅びる、たいへんだ、というような場合。この場合は、距離をおいて冷静に見た方が、正しい判断ができると思います。

そもそも平素大学で、文献は批判的に読め、と教えているのです。本に書いてあるから頭から本当だと思うのではなく(活字の権威で、そう思ってしまう人は少なくありません)、著者はそう言っているが本当にそうかどうか吟味する癖をつけなさい、と教えます。すなわち懐疑を育てているわけですが、その目的は、本当に正しいもの、すばらしいものとそうでないものを、しっかり見分けられるようになるためなのです。疑わず信じなさい、ということは、世の中のたいていのことに関しては、誤った教えとなります。

したがって、「信徒でなくては本当には理解できない」という命題は、不適切に使われる場合がほとんどだと思います。わずかな残り分に正当な場合がありうるかどうか、バッハがそこに含まれるか否か、が、残された問題です。

コメント

_ Tenor1966 ― 2009年10月15日 12時38分41秒

>バッハがそこに含まれるか否か

例えば、キリスト教はユダヤ教に対して、浄土真宗は浄土宗に
対しての新興宗教であるとして、「イエスよ、助けたまえ(JJ)」
「ただ神のみに栄光を(SDG)」と楽譜に書き込んだバッハの音楽
作品を、教祖の本ではなく信徒の本にあたると仮定してみます。

「文献は批判的に読め」をバッハの作品に当てはめ、バッハがその
作品で、神の作った世界の調和を表現したとして、それを批判的に
(バッハはそう言っているが本当にそうかどうか吟味して)聴いて
みるとしたら、…なんだかしっくり来ません(笑)。文字言語と
音楽の特徴の違いなのでしょうか。(「疑いながら聴く」という
ことは可能なのでしょうか?)

ある意味世界の提示である音楽作品を文字言語の領域に例えると
したら、文献(論説文)というよりは文学作品(小説など)に近い
ように思います(かなり強引ですが)。それはいわゆる理解すると
いうものではなく、先の記事へのREIKOさんのコメントのように
楽しむものなのでしょう。

ただ、もっと深く楽しみたいという思いに駆られ、バッハがその
作品に表現しようと思っていたのはいったい何なのかということを
知ろうとしたとき、文学の作家論によって作品世界をより深く楽しむ
ことを助けたりするように、作曲家論としてのバッハ研究の階段を
登り始めるような気がします。

(まとまりのない文章になってしまいました)

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