充実した今年の学会2009年10月25日 23時33分43秒

関西支部を母体に、大阪大学で行われた、今年の学会。ここ数年でも、際立った内容であったように思います。数多い分科会が並行して行われ、内容が変化に富んでいた上、大家やベテランの方々が、何人も発表してくださいました。

皆さんがどのぐらい研究発表を大切にし、入念に準備して臨んでくださったかをよく示しているのが、ハンドアウト。じつに克明、情報量豊かなハンドアウトがすべての発表で配られ、適当に口頭で、というものは、私の見るかぎりひとつもありませんでした。バッハを中心としたセクションでは4人の名のある方々が発表されましたが、その方々の勉強ぶりもすごかった。日本の音楽学会はレベルが高い、というのが、海外の事情を知る先生方の一致した意見でした。

頭が下がったのは、ご高齢をいとわず最新の研究を発表された、皆川達夫先生。5年前の出版以降に、あるおらしょの原曲としてよりふさわしい曲を発見なさったそうで、その際の選曲は不適切でした、おわびします、と頭を下げられたのにはびっくりしました。もって範としたいと思います。

5泊6日に及ぶ大阪滞在でしたので、学会がつつがなく終了したあとは、快い安堵感に包まれました。たくさんの方々に貢献していただいたおかげです。

博士論文2009年10月26日 23時34分43秒

学会で、音楽学と学位の関係、とくに博士号との関係を扱ったシンポジウムがありました。そのさい、予告に書かれていて議論が及ばずに終わったのは、音楽大学が演奏家の博士を輩出するようになり、その指導を音楽学の先生がするようになったことに伴う、種々の困難についてでした。

音楽学者が音楽学の学生を教えるのは、普通のことです。しかし演奏の学生を博士論文に向けて教えることには、多大の困難が伴います。演奏の学生は論文を書くのが専門ではなく、基本的にはそれを苦手とする人がほとんどだからです。そういう人たちにどういうことをどれくらい教えるべきか。博士課程のある大学の先生は、皆迷っておられるに違いありません。

私はしかしこの問題に、自分なりの確信をもつようになりました。演奏が専門なのだから、論文はこの程度でいいだろう、というのは絶対ダメです。それでは結局作品の解説のようなものができてしまい、苦労した割にはお互いに不満が残って終わります。何が研究かわかるところまで、ぜひとももってゆかなくてはなりません。3年はたしかに短いけれども、そうする時間は、修士2年間に比べれば与えられているのです。

解説と研究の違いがわかる段階に達すると、論文は発展しはじめ、調べたり考えたりすることが楽しくなってきます。そうなればしめたもので、視野はどんどん広がり、そこで得た洞察が、演奏にもフィードバックされるようになる。その段階があらわれるまで、コツコツと努力できるかどうかが問題なのです。

私はこうした考えを、体験に基づいて述べています。いま博論完成中の湯川亜也子さんに、このような劇的な発展が、3年越しで起こりました(フォーレ研究)。今日ゼミで発表した1年生の阿部雅子さんには、早くも発展のきざしがあらわれています(モンテヴェルディ研究)。このように、演奏の学生の論文指導には、予見できない可能性がある。それは日々の練習を通じて音楽に打ち込むという点で、演奏の人たちがより真剣であることと関係があるように思えます。

こうしたことは本当に嬉しいことなので、定年までの間、演奏の学生の論文指導に打ち込みたいと思っています。

バッハ理解と信仰(結論)2009年10月28日 23時55分29秒

バッハ理解と信仰の関係の問題、そろそろ結論に近づきたいと思います。

バッハを深く理解するためには信仰が必要だ、とおっしゃる方にはときどき出会いますが、その言葉を私は必然的に、ほかならぬ自分に向けられたものと理解します。すなわち、「礒山もなかなかよくバッハについて勉強しているが、信仰を持っていないので、本質的な理解には達していない。自分は礒山ほどバッハに詳しくないが、信仰があるので、バッハに対してはより深い理解をもっている」と言われている、と理解するのです。

若い頃はそうした意見に譲る気持ちもありましたが、ずいぶん前からそう思わなくなりました。ひとつの理由は、私の読者に、クリスチャンの方が相当数おられることです。美学会のおりにも、ある伝統ある大学の方から、「うちのシスターが先生の『マタイ受難曲』に感動している」という理由で、出講の依頼を受けました。ありがたくお受けしましたが、非信徒のバッハ論をこのように読んでくださる方もいらっしゃるわけです。

ただ、理解のあり方が違う、感動の場所が違う、ということはあるでしょう。こういうテキストはわれわれにはぴんと来ないが、信徒の方は熱烈に受け止めるだろう、と思うことはよくあります。しかし、信仰がなくても同じように深く受け止められるテキストもたくさんありますし、かえって素直に受け容れられるテキストも、あると思う。その場合、信仰を前提とするメッセージの方が信仰を前提としないメッセージより重要であるとは、現代に生きる私には思われません。

以前の談話で、信仰と宗教性を分けたと思います。両者は重なる部分もありますが、あえて分けるとすれば、前者は何らかの共同体に所属している、洗礼を受けている、教会に通っているというような帰属性をあらわし、後者は宗教の問題への鋭敏な感性や、個的人間を超えるものへ広い志をあらわすとして区別できるのではないかと、私は考えます。

キリスト教徒ではないがバッハに心からの感動を覚えるという人は、後者の意味での、宗教的な心映えをもった人なのではないでしょうか。そういう人がいま世界で、大勢バッハを聴いているのだと思う。バッハ自身の中にも、こうした開かれた宗教性が豊富に存在していたと、私は考えています。

さて、聴く側はそれでいいが、演奏者の場合はどうだろう、というのが、Tenor1966さんの問題提起でしたね。これも同じことだと、私は思うのです。私は演奏家ではありませんが、バッハをどう演奏すべきかということに関しては自分のはっきりした考えを抱くにいたっており、信仰の所産を前にしてどう演奏すべきか考え込む、ということはありません。もし職業的な訓練を受けていれば、応分の演奏はできると思います。要するに、宗教的感性に恵まれた人が作品への十分な考察のもとに演奏するのであれば、信仰をもたずとも感動的な演奏ができると、私は確信します。また、そうした演奏がもっともっと増えてほしいと思っているのです。

今月のCD2009年10月30日 22時50分36秒

今月のCD三選は次の通りです。

①ハイドンとモーツァルト 久元祐子(フォルテピアノ)(ALM) ②フランシスコ・タレガ作品集 國松竜次(ギター) (フォンテック) ③円環と交差~岡田博美プレイズ三善晃(カメラータ)

①は久元さんの最新録音で、モーツァルトの初期ソナタ3曲、ハイドンの2曲が収録されています。最近久元さんとよくコンサートをやっていて、この談話でもしばしば言及しているのでちょっと気が引けますが、毎日新聞で紹介するのは初めてなので選びました。今回はヴァルターのフォルテピアノを使用しているため響きが作品に寄り添って美しく、繊細な表情が心に染みる演奏になっています。

久元さんの演奏にはいつも卓越した洞察力を感じますが、それに共通するものを若手ギタリスト、國松竜次さんのタレガにも発見して、びっくりしました。《アランブラの思い出》などの小品が國松さんの洞察力により、対位法的な立体感をもって浮かび上がってくるのです。この感性に、これから注目したいと思います。

③では三善晃さんのピアノ曲集を、岡田さんが透明度高く再現しています。《音の栞》という曲集は学習者用のものだそうですが、綾なす洗練の中に童心のきらめくとてもいい曲で、広く親しまれてほしいものです。というわけで日本人のものばかり3点を選び、DVDは入れませんでした。

11月のイベント2009年10月31日 14時55分04秒

11月最初の仕事は、小倉インマヌエル教会での《マタイ受難曲》に関する講演です。主催は、北九州聖楽研究会。合唱の役割を中心にお話するべく準備しています。

11/7(土)は朝日カルチャー新宿校の連続講座「新・魂のエヴァンゲリスト」で、ライプツィヒ時代の2回目。テーマは「ドレスデンとの関係」です。10:00から。

11/21(土)は恒例の「たのくら」です。今月は「G線上のアリアとパッヘルベルのカノン」と題し、ポピュラー名曲の聴き比べを行います。10:00から。

11/28(土)は朝日カルチャー横浜校「バロック音楽の名曲を聴く」の最終学期。テーマは「後期バロックの器楽曲」です。13:00開始です。案外ゆっくりしたペースの今月です。