懐疑の効用2009年10月13日 17時26分09秒

新興宗教の教祖の本に対して、「信徒でなくては本当には理解できない」という命題が成立するでしょうか。--これについて考えてみましょう。

心酔者から勧められ、読んでみると荒唐無稽、というケースが、ある程度あるように思います。たとえば、何年に世界が滅びる、たいへんだ、というような場合。この場合は、距離をおいて冷静に見た方が、正しい判断ができると思います。

そもそも平素大学で、文献は批判的に読め、と教えているのです。本に書いてあるから頭から本当だと思うのではなく(活字の権威で、そう思ってしまう人は少なくありません)、著者はそう言っているが本当にそうかどうか吟味する癖をつけなさい、と教えます。すなわち懐疑を育てているわけですが、その目的は、本当に正しいもの、すばらしいものとそうでないものを、しっかり見分けられるようになるためなのです。疑わず信じなさい、ということは、世の中のたいていのことに関しては、誤った教えとなります。

したがって、「信徒でなくては本当には理解できない」という命題は、不適切に使われる場合がほとんどだと思います。わずかな残り分に正当な場合がありうるかどうか、バッハがそこに含まれるか否か、が、残された問題です。

私は「気鋭」?2009年10月14日 12時27分31秒

信仰の問題について本格的なご意見をいただき、ありがとうございます。これについては「ゆっくり」考えてゆくこととし、今日は別の話題です。

先日のご案内で、17日(土)の「楽しいクラシックの会」例会の情報が抜けている、とのご指摘がありました。これはうっかりしました。「ポスト・ヴィヴァルディ時代のイタリア音楽」というテーマで、10:00から行います。立川市錦地域学習館です。

それから、20日(火)の中嶋彰子さん他によるいずみホール《月に憑かれたピエロ》公演に、大阪の生んだ天才作曲家貴志康一(生誕100年)の歌曲3曲に加えて、メンデルスゾーン(生誕200年)の未発表歌曲2曲の日本初演が加えられることになりました。ぜひお出かけください。

もうひとつの話題。今日、私の新著『「救済」の音楽』(音楽之友社)の見本が出来てきました。バッハ論7、モーツァルト論2、ベートーヴェン論2、ワーグナー論4、ブラームス論1、マーラー論1を盛り込んだ論集で、執筆は1881年の《神々のたそがれ》論から書き下ろしの結婚カンタータBWV216論まで、28年に及んでいます。「救済の音楽」というタイトルは、各論に内蔵された大きな方向性をイメージ化したもので、文字通りの救済論というわけではありません。3800円+税という値段なので、気軽に手にとっていただきにくいかもしれませんね。

見本のオビを見て、目を疑いました。そこに、「気鋭の音楽学者による渾身のアプローチ」とあったからです。私、「気鋭」でしょうかね。何か、とても気恥ずかしいのですが(笑)。

新著目次2009年10月15日 14時59分20秒

新著『「救済」の音楽』(音楽之友社)の目次です。

第1章 J.S.バッハの音楽  結婚カンタータ《満たされたプライセの町よ》BWV216が甦るまで  J.S.バッハの作品概念  オルガニスト、バッハ  創造性と教育--バッハのクラヴィーア音楽  バッハの視覚・視覚のバッハ  生きなさい、死になさい、ここに憩いなさい--バッハにおける目覚めの考察  マニフィカト、バッハ、ルター--「マリアのほめ歌」の解釈をめぐって

第2章 古典派の音楽  モーツァルトの〈クレド〉書法  モーツァルトとバロック・ポリフォニー  ベートーヴェンにおけるダイナミックなソナタ形式の発明  ベートーヴェンからの乾杯--《第九》の通念を問い直す

第3章 ワーグナーとロマン派の音楽  ワーグナーにおける救済概念の深化  陰画としての《神々のたそがれ》--ワーグナー解釈の1つの試み  《パルジファル》における聖の二重構造  愛-信仰-希望?--ライトモチーフにたどる「救済」の音楽表現  《パルジファル》演奏史--13のCDを比較する  すべての聴衆に開かれた福音--《ドイツ・レクイエム》の成立まで  グスタフ・マーラーの現代性--悲劇的世界をひたす愛の力

すてきなデザインは、菊地信義さんがやってくださいました。発行は10月31日ですが、来週あたりから本屋に並ぶそうです。よろしくお願いします。

最上の学生公演、《ドン・ジョヴァンニ》!2009年10月17日 22時06分34秒

今日、国立音大大学院オペラ公演《ドン・ジョヴァンニ》の1日目がありました。例年モーツァルトのオペラを取り上げるのですが、《フィガロの結婚》だと満席に近く、他のオペラだと空席が増える。そこで、まあ土曜日だし、と、ゆっくりと出かけました。

すると、いつもよりホール周辺が騒がしく、引き返してくる人たちとすれ違うではありませんか。着いてみると、「もう一席もありません」とのお達し。関係者用の席にやっと座らせてもらいましたが、スタッフが座席探しに奔走する、文字通りの超満員です。どのホールも観客減に悩んでいる時節にこれは何としたことか、と、キツネにつままれたような気持ちでした。

しかし、このような熱気の中で始まった公演が、盛り上がらないはずはありません。過去に匹敵する例を思い出せないほど、充実した公演になりました。何よりオーケストラが流麗かつ的確で、同じ学生の演奏とは思えない。指揮者は高関健さんでしたが、一流の棒がこれほど音楽を変えてしまうものかと、驚くばかりです。

主力となったのは、院修士の2年生でした。今日出演したのは、村松恒矢(ジョヴァンニ)、大島嘉仁(レポレッロ)、高柳圭(オッターヴィオ)、柴田紗貴子(アンナ)、齊藤智子(エルヴィーラ)、清野友香莉/三井清夏(ツェルリーナ)の7名(+助演の先輩)。明るく積極的な、よく勉強する学年で、論文作成の授業がかつてなくうまくいったことは、すでに書いた通りです。その手応えが今日の演奏からもそのまま感じられ、学長は新カリキュラムの成果だとお喜びでした。たしかに、その影響はあるかもしれません。

平素は長所も短所もそれぞれに聴き、途中で見切りをつけてしまうこともよくある私ですが、今日は気迫にあふれた全力投球の演奏を最後まで気を入れて聴き、「鳥肌の立つ」思いを、再三味わいました。出演者の感動も、さぞ大きいことでしょう。明日の公演、私は参りませんが、狩野賢一(レポレッロ)、経塚果林(アンナ)、全詠玉(ツェルリーナ)と、力のある人が残っています。皆様ぜひ応援してあげてください。

プログラムの解説は私が書いていますが、そのあとに、「出演者より」というページがあります。「出演にあたっての思い」その他を記す欄です。みないいことを書いていますが、本日アンナを熱唱した柴田紗貴子さんの文章はとりわけ感動的で、ぜひ皆さんにも読んでいただきたいと思います。学生がどんな意気込みでオペラに取り組んでいるかを示す、これはとてもいい例です。

「本来なら、オッターヴィオと平凡で幸せな結婚生活を送るはずだったドンナ・アンナ。彼女は父の死という計り知れない悲しみと孤独を一気に背負い、『生きている者にとっての死』を味わうこととなります。それと同時に、憎むべきはずのドン・ジョヴァンニへの新たな感情に心は揺れ動き、自らオッターヴィオを拒絶することとなるのです。しかし彼女に与えられた旋律はそれとは裏腹に、天からの一筋の光りのような、格調高く崇高で、優雅で温かいものとなっています。これは苦悩する彼女に与えられた唯一の救いだと、私は信じています。」

先日学生たちが、「ドン・ジョヴァンニ・ワイン」なるものを、添え書きとともに届けてくれました。ラベルに、出演者の写真が刷り込まれています。これから空けて、気分良く飲みたいと思います。

戦記物の切り口から2009年10月18日 23時51分17秒

お待たせしました。「戦記物を感動して読んでいる人に、戦争の悲惨さは行った者にしかわからないよ、と言うことは正当でしょうか」という設問についてです。

「戦争の悲惨さは行った者にしかわからない」という命題が正しいことは、どの方も認められると思います。「感動して読む」ということは、事実上、そのことをかみしめながら読んでいるのだと思う。ちなみに「戦記物」という言葉は、太平洋戦争の体験記のようなものも含めて使いました。適切でなかったらお詫びします。

戦争体験の悲惨さは圧倒的ですから、体験された方がそう思うのは、ある意味で当然です。しかし、わからないことを承知で、伝えようと努力している方々もいらっしゃる。そして、ある程度は、必ず伝わるのだと思うのです。まさにTenor1966さんがおっしゃるように、人間の想像力が、大きな役割を果たします。人間の想像力は尊いもので、現実を超え、真理に肉薄する可能性をもっている。芸術において、その力は最大限に発揮されます。

したがって、「戦記物を感動して読んでいる人に、戦争の悲惨さは行った者にしかわからないよと言うこと」は、正当ではないというと強すぎるかもしれませんが、言わない方がいいこと、言って欲しくないことのうちに入ると思います。信仰のない人にバッハはわからない、とどなたかがおっしゃるとしたら、それも同じことではないでしょうか。そうした発想にはいわゆる「上から目線」が含まれているように、どうしても思えてしまいます。

テーマは適切か2009年10月19日 23時38分12秒

いま「バッハの音楽を理解するために信仰が必要か」というテーマで少しずつ議論していますが、このテーマの立て方が適切であるかどうか、疑問に思い始めました。そこで鈴木雅明さんの『わが魂の安息、おおバッハよ!』を見直したところ、次のような文章を発見しました。

「これら演奏上の技術研究や音楽学的な研究を進める際にも、個々のカンタータのもつ最も根本的なキリスト教のメッセージについての理解なくしては、実際の演奏において成果を挙げることができないのもまた事実である」(29-30ページ)。

私は、非キリスト教徒のバッハ研究者として、この鈴木さんの言葉に、完全に同意します。私はバッハの作品に含まれる「根本的なキリスト教のメッセージ」をたえず研究の中心に据えてきましたし、そうしたメッセージが把握され発信されていることが、演奏においてきわめて重要なことであると認識しています。

しかし私は、キリスト教の信仰をもっていません。「信仰」がないと、メッセージは理解できないのでしょうか。そもそも「信仰」って、何なのでしょうか。この定義をしっかりさせないと、話が先に進まないように思います。

30年ぶりの楽友協会合唱団2009年10月21日 23時19分11秒

今回のウィーン音楽祭 in Osaka、ひとつの話題は、楽友協会合唱団を招聘したことです。カラヤンのお気に入りだったこの合唱団は、1979年にカラヤンと一緒に来日して以来、まったく日本に来ていません。しかしウィーン音楽祭は楽友協会との提携で実施している企画なので、協会所属の合唱団を招聘することには、大きな意味があります。そこで、《天地創造》を同合唱団指揮者のヨハネス・プリンツ氏の指揮で、《ドイツ・レクイエム》を大植英次さんの指揮で演奏していただく企画を立て、招聘を実現しました。

張り切ってやってきた合唱団、今日は《天地創造》のリハーサル。どこかで聴いた響きだなあ、と思っていたら、数年前楽友協会の125周年のコンサートに出席したとき、合唱の1曲が、ムーティの指揮で披露されたことを思い出しました。まさに同じ響きが、いずみホールのステージに再現されていたのです。

夜は、「ウィーン楽友協会合唱団の伝統を語る」と題するシンポジウム。そのコーディネートが、今回における私の最大の仕事です。トーマス・アンギャン総監督の、合唱団の歴史と活動に関する講演のあと、指揮者プリンツ氏、代表アーデルハイト・ヒンク氏(ウィーン・フィル・コンマスの夫人)、団員ヨアヒム・ライバー氏(もの柔らかな典型的ウィーン紳士)、アンギャン氏という顔ぶれでパネルディスカッションを行い、さまざまなことを語っていただきました。進むにつれて印象づけられたのが、プリンツ氏の存在感。明晰な弁舌と真摯な姿勢に、ウィーンを背負う新しい逸材の台頭を実感しました。

最後に民族衣装の合唱団があらわれ、日本語の《紅葉》を含むアカペラ3曲を披露するに及んで、会場の温かい雰囲気は最高潮に。音楽のエッセンスを電気が走るように伝えるプリンツ氏の指揮に、脱帽です。関西の方、《天地創造》、ぜひおいでください(《ドイツ・レクイエム》は完売)。

部屋に戻ったら、クライマックス・シリーズの中継をやっていて、日本ハムが怒濤の攻撃中。スレッジの逆転サヨナラ満塁ホームランには鳥肌が立ちました。かくして、いい1日でありました。

屏風のごとき偉容2009年10月22日 21時53分36秒

ハイドンの《天地創造》、私の19年間のいずみホール生活の中でも記憶にないほどの、大きな盛り上がりになりました。「歴史的」という言葉を使われた方がおられましたが、確かにそう思います。

アマチュアの楽友協会合唱団を単独で日本に連れてきてどうなるか、じつは、ある程度不安に思っていたのです。でも、大指揮者に率いられたウィーン・フィルと常時共演している実力は、伊達ではありませんでしたね。曲が《天地創造》ともなると、ひとりひとりが何をするべきか熟知していますから、個々の説得力が積み重ねられて、77倍になる。強靱にして壮大なその合唱は、ステージの奥にがっしりした屏風が立っているような感じでした。

プリンツ氏の力が、やはり大きいようです。知的で明晰、安定感のある指揮。オーケストラの統率もじつに見事で、関西フィルのメンバーが絶賛していると聞きました。これほどの人なのに、職務が合唱指揮なので全体の指揮をする機会がひじょうに少ないのだそうです。今回指揮をおまかせして、本当に良かったと思いました。

もうひとつ驚いたのは、ソプラノの幸田浩子さん。度胸満点、切れ味のよい華麗な歌いぶりで、言葉がこれほどキラキラ生きたオラトリオ歌唱を聴いたことがないほどです。賞を総なめにしている実力が、よくわかりました。

大阪情緒2009年10月23日 21時34分42秒

昨日昼間時間がありましたので、ある目的をもって、梅田界隈に出かけました。環状線で普通そのまま大阪駅に行くのですが(出発点は大阪城公園駅)、たまには知らないところで降りてみようと天満駅で下車し、梅田まで歩くことにしました。

降りて驚いたのは、アーケード商店街が、左右にずっと伸びていること。これを天神橋筋商店街といい、日本最長であるというのは、いま調べてわかった情報です。アーケード街といっても東京風にピカピカなのではなく、いかにも庶民的な味わい。小造りでちょっとごみごみしていて、昔風の情緒が漂っているのです。食事のできるところは至る所にありましたが、大阪風の甘い味付けのお店が多そう。私は「唐辛子」という字を見ると急にお腹が空いてくるような荒々しい好みなので、入りかねるまま歩いていると、ありましたね、その名も「担々」という、四川料理のお店が。ここの味は本格的で、温野菜などたいしたものでした。お勧めです。

どんどん歩いているうちに逆方向に来ていることに気づき、延々と逆戻り。大阪はとてもわかりにくいです。大阪駅周辺など、いまだにまったく方向がわかりません。ようやくたどりついた目的地は、そう、ヨドバシカメラ!買ったものはもちろん、WINDOWS7!WINDOWSの新バージョンはその日のうちに購入するというポリシーを、今回も守りました。持参しているノートパソコンに、これからインストールしてみたいと思います(ドキドキ)。

ダブルブッキングでは絶対ないのですが2009年10月24日 23時09分30秒

絶対ダブルブッキングではないのですが、あたかもダブルブッキングのように見えるのが、しゃく。人は、私らしいよとおっしゃるでしょう。なんとも騒々しい今日一日でした。

今日は大阪大学で行われる日本音楽学会全国大会の、第一日。全国大会は学会会長の最大イベントです。もっとも重要なのが総会で、次が懇親会。朝には開会宣言もします。

ところが今日は、ウィーン音楽祭in Osakaの最終日にあたっており、《ドイツ・レクイエム》のコンサートのあと、打ち上げのパーティが開かれることになっていたのです。オーストリア大使以下、賓客もいらっしゃる。当然、私が出席しないとまずいわけです。しかしうまくいかないもので、総会とコンサートが、同じ4時の開始。懇親会は学会が5時50分から、音楽祭は6時半からで、場所は南北に遠く離れています。

当初は、学会を優先せざるを得ないと腹を決めていました。でもいざ音楽祭が始まってみると、やはりこちらも出席しなければ、という気持ちがつのるばかり。そこで、学会の懇親会に1時間出席し、全速力で移動して、パーティの中締めを務めることになりました。計算上は、なんとかなりそうです。

ところが。総会が延びて、懇親会の開始が遅くなったのがケチの付けはじめでした。挨拶と寄付者の紹介を済ませ、7時ちょっと前に脱出。経済学部前にタクシーを呼んで阪急の蛍池駅へ、そこから梅田まで乗って再びタクシーに乗る、という作戦でした。

ところがところが、夜の大阪大学はたいへんわかりにくく、経済学部がどこだかわからぬまま、外の通りに出てしまいました。朝来るのと逆方向なので、わけがわかりません。タクシーはまったく通りませんので、電話で予約したところ、待ってましたとばかり、空車が次々に来ます。そんなこんなで時間を浪費するうちに、スタッフから、悲鳴のような問い合わせが入り始めました。

なんとそっちは予定より早く始まり、そろそろ終わりそうだというのです。刻一刻電話の飛び交う、スリル満点のタクシー行になりました。

結果は、アウト。たどり着いたときには合唱団は解散しており、待っていてくれた首脳の方々とお別れするのが精一杯でした。お腹が空きましたので、森之宮の「黒らうめん」へ。これがたいへんおいしく、私の「ツキの理論」の、ささやかな実証と相成りました。