カウントダウン3--練習10時間 ― 2009年06月11日 23時24分56秒
今日は、練習の最大の山場になりました。
第1グループ、第2グループの全員が揃い、始まったのが朝の10時。18年ぶりに、英語の挨拶をしました。断続的な休憩を挟みながら進む練習は、今日初めて計画よりもじりじり遅れ、終わったのが夜の8時。スケジュールは9時半まで組まれていましたので、これでも早く切り上げたのです。第1グループのテノール(マクストゥーツ)はエヴァンゲリストを兼ねていて歌いっぱなしでしたから、一番たいへんだったと思います。
しかし丁寧な練習のおかげで演奏の密度、完成度、両グループの連携は格段に進み、ある程度のラインには到達したのではないかと思います。少し自信が芽生えてきていますが、もちろん判定は、お客様に委ねなくてはなりません。明日、ゲネプロが行われます。
余談をひとつ。いまマスコミを賑わせている話題は、日本郵政社長の続投問題ですよね。このことの背景とか、くわしい事情とかを私は知りませんし、どちらが正しいかを判断することもできません。しかしひとつだけ確かなことは、自分が正義だと言い、善人だと言って他人を追い詰める人にろくな人はいない、ということです。私の一番嫌いな言動です(ルカ福音書を読め!)。
カウントダウン2--よき日常の日 ― 2009年06月12日 22時30分15秒
今日、杜のホールはしもとでは、《マタイ受難曲》のゲネプロが行われました。明日は休みで、明後日は、いよいよ本番です。
私はゲネプロには顔を出さず、大学で授業をこなしました。「歌曲作品研究」はブラームスの番で、《日曜日》と《子守歌》を学習。《子守歌》は涙なくしては聴けないというぐらい好きな曲ですが、担当の学生とTAがよくやってくれて、感動とともに授業終了。毎日のように感動に触れられるのは、ありがたい職業だということですね。
午後は1年生、2年生の発表がずっと続き、これも、なかなか充実。放課後に行ったドクター論文の指導にも画期的な展開が見られ、嬉しい1日でした。これって、ツキを使っていますかね・・。
明日は武蔵野音大に場所を借りて、うちの博士課程で作曲・音楽理論を選考している学生、今野哲也君のトリスタン和声に関する発表があります(日本音楽学会関東支部例会、14:00から)。たいへん勤勉な学生で万全の準備を整えたようですから、参加される方、ご指導をよろしくお願いします。
カウントダウン1--清くやさしい乙女から ― 2009年06月13日 23時17分06秒
武蔵野音大での学会。今野哲也君、落ち着いた立派な発表でした。高度に専門的な内容のプレゼンテーションがよく整理されていて、国立音大の評価にも貢献してくれたと思います。
ピアノで試奏される《トリスタン》の和音を聴きながら、ワーグナーの和声はなんと美しいのだろうと瞑想。昔柴田南雄先生のところで和声を習っていたとき、よくワーグナーの分析の課題が出たのですが、この1音がなければ説明できるのに、というようなところが多かったのを思い出します。響きはまったく明瞭で表情に富んでいるのに、理屈で説明しようとするとうまくいかず、学者がいろいろな説を出して100年以上も論争している。芸術と学問の関係の、ひとつの典型でしょう。
学会を途中で抜け出して、橋本へ。すっかり準備のできた、しかし音楽家は誰もいない杜のホールで、字幕の確認と手直しをしました。第1部の最後のコラール合唱曲の「清くやさしい乙女から 私たちのために誕生された」のところへ来ると、私はいつも感動を覚えます。明日、この箇所をどんな気持ちで聴くことになるのでしょうか。
今回は2つのグループの峻別が重要なコンセプトなので、第1グループ、第2グループ、両グループ合同の3つを、3種のフォントで区別するように工夫してみました。字幕の操作をしてくださるのは、国音の卒業生で、私の「歌曲作品研究」を受講していた方だそうです。さあ明日。出演者の皆さん、がんばりましょう。
《マタイ》週間に突入 ― 2009年06月15日 09時31分53秒
おかげさまで、《マタイ受難曲》の最初の公演が終わりました。打ち上げがあり、アメリカ側の方々とかなり飲みましたので、今朝はやっと起きた、という感じです。追ってご報告いたします。
〔追記〕 演奏に関しては、私が自分から論評するより、皆様の感想を待ちたいと思います。ここでは、周辺情報を若干。
はじめ主催者から、最後にステージに出て、ひとこと挨拶して欲しい、というオファーをいただきました。挨拶は無用と思い辞退しましたが、公演の始めなら挨拶もありかな、と思い、迷い始めました。しかし演奏の全容があらわれてくるにつれ、まっすぐ聴いていただけばいいだろうと気持ちが固まり、やらないつもりで現場に行きました。
そうしたら、主催者が、冒頭の挨拶はぜひいただきたい、と勧めてくださるのです。たしかに、公演の打ち出しが私の「バッハの宇宙」シリーズ最終回という形になっていて、そのお客様がかなりを占めていることが想像されましたので、蛇足の懸念を抱きつつ、挨拶させていただきました。私としたことがかなり緊張し、言葉が乱れました(笑)。
終了後、安い居酒屋で打ち上げ。肩の荷の下りたところで、よい国際交流ができました。アメリカの若い音楽家たちは皆日本に興味津々で、ガイドブックを覚えるほど読み、とりわけ食事を楽しんでいるようです。
「リフキン方式」の効果、一側面 ― 2009年06月17日 12時36分16秒
昨夜、杜のホールの第2回公演が終わり、アメリカ側の全員と日本側の歌い手が、大阪に向けて出発しました。18日(木)がいずみホール公演です。よろしくお願いします。
演奏をどう評価するかは別として、聴いてくださった方がどなたもお感じになるのは、今回の《マタイ受難曲》が今までの《マタイ受難曲》とまったく違って聞こえる、ということだと思います。「リフキン方式」の生み出す効果の本質が、ようやく見えてきた、ということでしょうか。
それは、群衆の合唱の効果が、一般の公演よりはるかに印象的だ、ということです。《マタイ受難曲》を聴くときに、群衆の合唱に重要性を置いておられる方は、おられますか?私自身、あまり置いていなかった、というのが正直なところです。ところが、2つのグループの「合唱」がソリスト、すなわちアリアを歌う人の集合、という形で演奏されてみると、たとえばプロのソリスト対アマチュアの合唱団、という形に比べて、群衆合唱の生命力、そこでバッハが駆使しているポリフォニー技法といったものが、際立って感じられるのです。いつしか、群衆の合唱を楽しみにしている自分を発見します。
具体的に2つの箇所を挙げますと、第36曲「言ってみろ、キリスト、お前を殴ったのは誰だ?」の二重合唱と、そこから「誰があなたをこんなに打ったのですか」のコラールが湧き上がる部分。もうひとつは、有名な「バラバ!」の叫びです。減七の和音が量ではなく質として表現されることにより、ここの効果は「怖い」ものになっています。どうぞお聴き逃しのないように。
感激の大阪公演 ― 2009年06月18日 17時41分38秒
大阪公演、終わりました。残念なこともありますが(お客様が十分集められなくていずみホールにご迷惑をおかけしたこと、私の責任範囲である字幕が最後に乱れてお客様の感興を妨げたこと)、演奏の出来は、ホールの音響効果にも助けられて、一番良かったのではないかと思います。とくに後半。演奏家、とくに歌い手の方々に感動が支配しているのを見て、本当にそう思いました。
今日も、プラスアルファの情報をひとつ。一般の公演では児童合唱で歌われる冒頭合唱(および第1部最後の合唱)のコラールを、今回の公演では、ウルリーケ・ブレーガーさんが担当しています。この方が清楚なイメージで、絵のように美しい女性なのです。ドイツ人の概念をくつがえすという感じです(失礼)。
メインのソプラノにはクララ・ロットソークさんという大物が来日していますので(今日の〈愛の御心から〉はすごかった)、ウルリーケさんの役どころは、コラールのほか、女中、ピラトの妻、リコーダー。しかし二階席から響かせるコラールの効果はなかなかで、私のところに、「あの女性に片思いしてしまった人は私だけではないはずです」というメールをくださった方があるほどです。メールは、訳してウルリーケさんにお渡ししました(笑)。須坂の方、どうぞお見逃しのないように。
圧巻の歌唱だったクララさんが終演後泣いておられるのを見て、びっくり。ジェイソンさん(エヴァンゲリスト)の目にも、涙が光っていました。感激の、大阪公演でした。
披露されたラグタイム ― 2009年06月19日 23時34分49秒
今日、メンバーはバスで須坂へ移動。私は新幹線でいったん家まで戻り、すぐに出直して須坂に入りました。夜、リフキン先生の「病院コンサート」が、須坂で開かれたからです。もちろん、地域貢献のチャリティ。病院のエントランスは、患者さんや職員で満員の盛況でした。
ジョシュア・リフキンの名は、初め、ラグタイムのベストセラーLPによって世に広まりました。今回はスコット・ジョプリンのラグタイムを9曲並べたコンサート。リフキン先生がジョプリンを弾くのは、おそらく日本では初めてでしょう。くつろいだ雰囲気のコンサートでしたが、ジョプリンの作風の変遷や曲ごとに籠める思いがわかったこと、先生の温かく繊細な演奏がバッハ解釈にそのまま通じることを知ったことは、うれしい収穫でした。入院中の女児から花束を贈られて、先生も感動のご様子でした。
終了後、長野のイタリアンで会食。さあいよいよ、最後の公演です。
「すざかバッハの会」の底力 ― 2009年06月20日 21時56分24秒
最終日、須坂公演の日。須坂には「すざかバッハの会」が存在し、私が1ヶ月おきにレクチャーをしに通っています。ですから、《マタイ受難曲》公演の受け皿としては最適のはず。しかし市の規模、音楽愛好家の人数、経済的キャパシティからすれば、東京や大阪のようなわけにいかないことも明白で、私は公演計画が実現しるか否か、かなりの不安を抱いていました。須坂公演をどうしたら成立させられるかを第一に考える時期が、長くありました。
しかし会を中心に万全の体制が敷かれ、最終的には諸条件が整ったことが判明。そこで当日を迎えたわけですが、14時の開演に先立って12時半から行われた私のプレレクチャーに、小ホール満員のお客様がいらっしゃいました。開演前の大ホールにも、どこから湧いてきたのか(←ある方の表現の引用)、人があふれています。
結果的に900人という、地方都市としては信じがたいほどのお客様が、座席を埋めてくださいました。こうなると、演奏者も盛り上がらないはずはありません。まさに地域ぐるみのコンサートの実現で、私は、足かけ7年続いてきた「すざかバッハの会」の培った底力をまざまざと感じる思いがしました。会長の大峡さん、献身的に働いてくださった会員の皆さん、何度も足を運んでくださり、打ち上げでもご挨拶をくださった三木市長さん、ありがとうございました。
ウルリーケさんが二階席から歌うのでご注目、とアナウンスしていましたが、メセナ大ホールには適切な二階席がないことが判明(笑)。ウルリーケさんは舞台の中央、前に出て歌いました。これが、観客の耳目を《マタイ受難曲》の象徴でもあるコラールに集める結果となり、これはこれで、大成功でした。
コンサート終了後の盛り上がりについては、次項で。
国際交流の力 ― 2009年06月21日 23時20分13秒
須坂公演終了後、迎賓館(パーティ会場)で打ち上げ。提供された地元の日本酒やどぶろくが、アメリカ勢に大好評でした。最後はスピーチの交換で沸きました。やっぱりみんな、若いですね。
長野に戻り、日本人4人で飲み始めていたら、携帯に連絡が入り、リフキン先生がお待ちだとのこと。先生から直メールも入っています。こちらはいったん日本語モードになっていたのですが、ご指名では逃げられませんので、皆の泊まっているホリデイ・インに出かけました。
マネージャーの部屋に演奏者たちが鈴なりで、宴会の真っ最中。私もしばらく仲間入りしましたが、その場でアメリカ側が作ってきてくれたTシャツ(前面には《マタイ受難曲》自筆譜タイトルのプリント、後面は演奏団体の名前とリフキンの名前、年号)とウィスキーをプレゼントしていただきました。重い瓶を、運んできてくれていたのですね。ありがとうございます。
最後の大きな盛り上がりに接して思うのは、国際的なプロジェクトのもつ力です。日本人だけでやったのでは、ここまでの高まりはなかったのではないでしょうか。両国の音楽家、若者の出会いがあり、交流があり、共同作業があって、この成果が得られたと痛感します。
余談。向こうの人って、親密な挨拶は抱擁したり、キスをしたりしますよね。こちらも当然、外国人相手には、そのように対応します。リフキン先生との抱擁はステージ上でも披露しましたが、宴席では、ウルリーケさんもクララさんも飛びついてきます(!)。うっかり日本人にもやりそうになって、おっとっと。日本ではセクハラですもんね(笑)。
爽快な入浴 ― 2009年06月22日 22時00分36秒
出演者たちがバスで成田に出発した日曜日。サンルート宿泊組は松本を観光して帰宅することになりました。善光寺を軽く見てから中央本線に乗り、松本へ。すぐタクシーで浅間温泉へ。ここは私が小学校に通っていたところで、長野県でも指折りの大温泉郷です。
お目当ては、「枇杷の湯」。老舗の旅館が、日帰り客のための共同浴場に模様替えし、人気を博している、というのです。入湯料は800円でしたが、たしかに環境といいお湯の質といいすばらしい温泉で、一同すっかり暖まり、大満足。それまで足を引きずっていた(通風?)私が、すいすい歩けるようになったのは驚きました。それにしても、かつてあれほどにぎわっていた温泉郷を、人が歩いていません。軒を連ねた旅館群が日曜日だというのにことごとく静まりかえっているのを見ると、時代の厳しさを痛感します。
朝降っていた雨が上がり、青空を覗く中を松本城見物。それからブエナビスタというホテルで、少しいいワインを飲みました。ヴェーネト産の絶品でした。いい町で育ったんだなあ、としみじみ実感する1日でした。
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